復活徹夜祭ミサ説教

2009年4月11日
於:桜町教会

 今回の聖週間は聖パウロのコリントの第二の手紙とコリントの教会の関係について話をしながら,パウロの心というのを探って参りました。
 昨日まで,コリントの教会の中で内紛が起こっていて分裂があったという話をいたしました。こういうことを通してパウロは自分が教会ということを考える良い機会になったと考えています。コリントの教会を愛しているからこそ痛みがあると感じています。愛さない人は評論家的に批判して,自分の意見が通らないと,さっと手を引いてしまいます。あるいは自分の意見が受け入れられなければ相手を非難するということに終始してしまいます。パウロはこの点で聖人だと思います。自分が建てた教会で,自分が作った信者さんたちが自分に反抗する。それに苦痛が加わる。こういう彼を想像してみてください。そういう状況の中で初めて教会に奉仕する役割は何であるかということに目覚めて参ります。すなわち苦難とか苦痛というのは,自分の使命をよりよく分からせてくれる恵みだと理解したのです。家庭にありましても順調の時には良い父親,良い母親であることは易しいでしょう。でも子どもが反抗したり,経済的にあるいは精神的にも苦痛が起こって家庭が分裂しようとするときに,初めて親の愛というのが問われてきます。自分が建てた教会が今分裂しようとしているその時に,パウロは自分が産んだ教会とは何かということを考えようとしています。
 コリントの第一の手紙で分かるところでは,人間の卑怯さ,移り気,裏切り,策略,偽りの教えとか,いろいろなものが入ってきて,教会中がかき乱され,教会のあるべき姿が見えなくなっている姿が見えます。その中で創立者であるパウロは逃げ出しません。まともにこの教会にぶつかっていきます。それは苦難にあるからこそ私たちのために亡くなった十字架のキリストの苦難に自分も与ることができると信じているからです。パウロはキリスト様と一緒にこの教会の苦しみに与ることを通しながら,新しい教会のあり方を模索しています。「自分を頼りにすることなく,死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とは第二の手紙の冒頭の句です。こういう状況の中にあるからこそ,私の力ではなく十字架につけられたキリスト様の力によって初めて教会が再生するという信念です。

 これから洗礼式があります。洗礼を受けて教会の信徒の一員になろうとしている方がおられます。家庭においても社会においても誤解,無理解,不条理,こんなものが私たちを取り巻いています。それらの現実に直面する時,洗礼を受けたという意味をよく問うてみてください。順調の時ではなく,一番難しいときに,自分は洗礼を受けたことを問い直してください。
 私たちの信仰というのは,十字架につけられた主キリストを信じる信仰です。愚かにならないといけない。威張ってはいけない。自分を無にして人々に仕えるという道を選んだということが洗礼の意味です。

    ※司教様チェック済み