松田神学生司祭候補者認定式のミサ説教

2009年3月1日
於:桜町教会

 今日は,松田さんの司祭候補者認定式がありますので,信者の皆さんというよりは彼に話しかけた説教をしたいと思います。
 四旬節というのは今日の朗読でお分かりのように,洗礼が大きくクローズアップされています。それは復活徹夜祭の光りの祭儀と洗礼の水による新しい復活が主題となっています。イエス様が砂漠で40日を過ごされたように,私たちも四旬節を40日間過ごします。その間イエスが悪と戦われたように私たちも自分の悪と戦うということを意味しています。そして復活徹夜祭において光の中に生まれ変わるのです。洗礼1つとっても大きな意味を有しています。しかし,今日は洗礼と比較しながら,司祭叙階を考えてみましょう。
 洗礼の水を受けた信徒一人一人は,キリストの祭司職を受けます。キリストを伝える司祭になる,ということを表しています。それを「共通の祭司職」と呼んでいます。司祭というのは人々の中にあって,人々の願いと祈りを神様に伝えていく人,神様からのメッセージとそのお恵みを人々に伝えていく人であり,司祭は人と神様との仲介役をします。イエス・キリストが人と神様との仲介役であったのと同じようにキリスト信者は仲介役をという役目を担っています。洗礼を受けたキリスト教徒は一人ずつ人々の願いを神様に伝え,神様の思いを人々に伝えるという司祭の役割を担っています。これを「共通の祭司職」と呼んでいます。
 ところがこの「共通の祭司職」とは別に,神様は個別に,ある人を自分の司祭へとお召しになります。これを「叙階による祭司職」「秘跡による祭司職」といっています。一般の祭司職と叙階による祭司職の違いは何処にあるのでしょう。それは司教と関わっています。叙階による祭司職,司祭に召される人は,司教の祭司職に与るのです。だから司教がいなければ司祭はいないのです。司祭の祭司職は司教の祭司職に与って初めてあるのです。司教の司祭としての務めを,どこに行っても同じように司祭は果たしていくのです。これが叙階による祭司職ということです。
 以上のことを考えますと,司教がもっている祭司職を分け与えること,これが司祭の叙階式となります。司教は司祭職の全てを持っていて,これに与り,これをもらって自分の司祭としての務めを果たすのが司祭たちです。これはカトリック教会の根幹に関わることで,多くのほかの教会の人々はそれを認めないという事実もあります。でも,カトリック教会はいつもこれに固執して来ました。イエス・キリストは弟子たちに按手をして,自分の司祭職を与えました。司教たちは自分の司祭たちに按手して自分の司祭にしました。このようにして,2000年間,司教から司祭へと按手の伝承を行いながら,カトリック教会が成り立っているのです。これは,ほかのキリスト教の教会と根本的に違う教会の見方です。従って,司祭は司教と深く結ばれて初めて存在すると考えても良いと思います。だから司教の基本的な方針,基本的な見方,これに与るということを促しています。納得して従順に生きるという使徒伝承の生き方を私達は大事にしているのです。私が司教だからこう言うのではありません。教会の一致とかカトリック教会ということを考える時,こういう視点を抜きにしては話すことができないからです。

 これから認定式を執り行いますが,この神学生のために祈るということは何を意味しているのでしょう。この神学生が,司祭として全生涯を司教とともに分かち合って,この高松教区のために自分の生涯を捧げるということを意味しています。それを誓う儀式が認定式です。皆さんも祈るときにはこの司祭認定者のためだけではなく,司教とともに結ばれた高松教区全体のために祈るということを表しています。だから信者の皆さんは,松田神学生が司教とともにその方針に従って生涯を生きるということを誓うこの式に与りながら,彼のために祈ってほしいと思います。自分の方針に自分だかで生きる司祭であってはなりません。自分のカリスマだけで生きていく,こういう教会があるわけではありません。司教とともに司教の祭司職に与って,初めて司祭があるというのが教会の伝統的な見方です。従って,松田神学生は自分の今までの経験とか,社会的な体験とか常識とか,これらを乗り越えなくてはいけません。司祭職をそれらによって行使するのではありません。司教の方針とともに司祭職がある,ということをしっかりと自分に意識してください。
 公然と司教の方針に従わないと言うような態度を司祭が見せるのでしたら,けっして司教の祭司職に与ることはできません。秘跡として司祭に残るかもしれません。でも司教の祭司職には与れません。すなわち司祭として存在できないということになります。もちろん,司教はその方針を決めたり,教区のあり方を決めるに際しては,神からのメッセージである福音をしっかりと読んでいく必要があります。それをしっかりと理解していく必要があります。また司祭評議会や信徒の評議会を通して,教区民の同意を得る必要があります。カトリック教会では,司祭は司教を抜きにして,自分だけで仕事をすることは決して出来ません。今日の認定式は,この人は司教とともに高松教区に生きると誓う事を意味しています。そのためには自分の今までの経験,これまでの社会的な常識を乗り越え,信仰を持って自分の生涯を見つめることが大切です。こんなことを今日は是非思い起こしてください。

 さて,ここでいくつかの考えを述べましょう。私達の司祭候補者は私達の教会の共同体によって推薦される必要があります。共同体と全く関わりのない人が司祭になるのではありません。皆さんの中から司祭が生まれるのです。そしてその人は皆さんに仕えるために,皆さんの前で司祭職への道を決意するのです。識別するのは司教に任せられています。でもその識別の業を助けていくのは信者の共同体なのです。この人が司祭にふさわしいかどうかを,信者の皆さんが理解しなければなりません。誰でもが急に皆さんの前に司祭になるのではありません。皆さんの中からゆっくりと支えられ,識別されて司祭職への道を歩んでいくのです。ですから皆さんの前,祭壇の前で式を行うのです。
 教会共同体が支え助け,一緒に歩まないといけないのです。私たちの司祭を共同体が作っていかないといけないのです。

 この説教の中で私は,司祭は司教と結ばれた司祭職であること,教会共同体と結ばれた司祭職であること,自分だけの神父であってはいけないということ,これらのことを強く訴えました。今までは司祭志願者でしたが,今日から彼は高松教区の正式の神学生として受け入れられていきます。今,高松教区とともに歩み始めます。それは高松教区の共同体と一緒に歩むということを表しています。教区のために全部を捧げていくという道を歩み始めるのです。今から名前が呼ばれますから,呼ばれたあなたは進み出て教会共同体の前で決意を表明してください。

    ※司教様チェック済み