結城了雪神父顕彰碑除幕式

2009年1月25日
於:阿南教会

 結城了雪神父について一言お話をさせてください。
 結城神父が殉教した1636年,日本には宣教師たちはほとんどいませんでした。,外国では殉教について見ることも聞くこともない状況でした。1636年,長崎を訪れたポルトガルの船がマカオに戻って,結城了雪神父が殉教したという知らせをもって参ります。マカオでは殉教したという知らせに燃え上がり,お祝い気分になっていました。殉教者を非常に大事にしていたからです。ところが,マカオにはマヌエル・ディアスという東洋の巡察師が居て,彼はアジア全域の責任者でした。彼は風聞,噂を聞いただけではだめで,はっきり確かめないといけないと考えていました。3年前の1633年,日本イエズス会管区長クリストヴァン・フェレイラという神父が拷問を受けて転ぶということが起きていました。マニラとかマカオではフェレイラ神父はもう一度信仰に戻り,神父として生活しているという楽観的な観測,希望的な憶測が噂で流されていました。マヌエル・ディアス神父はフェレイラ神父のこともはっきり知りたいということで,1637年,長崎行きの船でアントニオ・ネレッテを日本に送りました。彼はポルトガル人を父に持ち日本人を母に持つダブルの子どもでした。日本での結城神父のこととフェレイラ神父のことについて調査するようかれに願ったのです。事がはっきりすれば,マカオで結城神父のお祝いをする心づもりでした。ネレッティは長崎にいたとき,長崎奉行所で通事,通訳をしていました。日本で生まれ育っていますので,日本語はもちろん良くできますし,ポルトガル語もできるということで通訳の仕事をしていました。従って,長崎奉行所で働いている土地の役人たちは同僚であり,一緒に仕事をしていた仲間でした。またオランダ人ともつながっていて,オランダ人とも仕事仲間と言う関係がありました。彼の人選は適切でした。ネレッティは長崎に着いて自分の昔の同僚を訪ね,結城神父はどうだったかを聞きただします。昔の同僚で,長崎奉行所に務めている人の中に九郎兵衛という人がいました。なに九郎兵衛かわかりませんが,もう少し調べたら分かってくると思います。1633年,管区長であったフェレイラ神父は拷問を受け,体中が傷だらけになっていました。その結果はキリスト教を捨てるところまでいきます。九郎兵衛は,キリスト教を捨てたフェレイラ神父を自分の家に引き取って傷を治すのです。そういうこともあって,フェレイラ神父のこともよく知っている九郎兵衛をまづ訪れます。九郎兵衛は1636年,長崎奉行所から大坂に派遣され,大坂で結城神父の尋問に,自分も立ち会ったと証言します。その時結城神父にも立ち会い,その最後を見たと証言しました。その見たという九郎兵衛の証言をアントニオ・ネレッティは次の年,マカオに戻ってマヌエル・ディアス神父に文書にして報告しています。その報告には「日本の将軍は宣教師と信者の裁きを長崎の奉行に任せている。従って,もしある大名が,その領内でキリシタンを見つけたら,すぐに長崎に使者をおくり奉行はその人を長崎へ護送するか。あるいは捕らえられたところで処刑するかを決める。」と書かれていました。
 このことについては,板東先生とか,ここにおられる三木さんがもっとよく分かっていらっしゃることですが,ここで分かることは,結城神父は四国で捕らえられたこと,四国から長崎奉行所に知らせがあって大阪に護送されたこと,大阪の牢獄に入れられたと言うことです。そして大阪の奉行所から長崎奉行所宛に尋問の立ち会いを求めたのでした。長崎奉行所がキリシタン関係については全部責任を負っていたからです。「ディオゴ結城神父が大坂で捕らえられた」との知らせがあったとき,(この大坂というのは近畿の大阪ではなく,四国の大坂峠のこと)「長崎奉行はその地で処刑するように命じ,執行人として九郎兵衛という役人を派遣した。九郎兵衛は長崎に戻った後,私に次のように話した。結城神父は穴吊りの刑で聖なる死を遂げた。彼は調べを受けたとき,自分には宿主がなく,すでに20年前から森の中で木の実や草を食べて生活していたと言って誰にも迷惑をかけなかった。彼がすでに年老いて自信を持って話しているのを見て,取り調べる人は彼の言葉を信じ,結城は一人で死んだ。またこの役人は結城と一緒に同宿の一人も死んだと言ったというように思う。これらのことは長崎では公然と一般に知られていることで多くの人たちがそのことを知っています。」この証言を取り上げて,その翌年マカオでは結城神父殉教のお祝いをいたしました。

 結城神父の最後の言葉は「私は誰にも迷惑をかけなかった」ということです。その実,この四国の彼の周りにいる人々に迷惑をかけっぱなしとなっています。彼が隠れたために,みんなに迷惑をかけている。でも,迷惑をかけなかったと彼は言うのです。なぜなのか。彼が一言自分をかくまった人の名前を言えば,芋づる式に全員が捕まって拷問を受けるだろうということを知っていたからです。だから一切誰にも誰の名前も言わず,自分一人で草の実を食べて生活したとしか言わなかった。現代人は責任を他人においかぶせて自分は逃げて回ります。現代,一番必要な事として「自己責任」が言われています。「アカウンタビリティ」が非常に大事にされています。学校教育においても,自分がしたことをきちんと説明できる人間の育成ということを非常に大事にしています。結城神父はすべてを一人で背負って死んだ,これが彼の生き方の最たるものだと私は思っています。よろしければ「メッセージ」という本を書いて出しましたので,お読みくださるようにお願いします。

 これを機会に四国の400年前の教会を少しずつ分かって行きたいものです。私は東北にいた時,その地方で働いた神父たちの伝記を一年に一人ずつ伝記を書いていきました。四国ではなかなか勉強する時間がなく手を付けていませんが,結城神父の伝記が出るのを機会に,松山で働いたピエトロ・ナバロ神父とか松山出身の伊予ジェロラモ神父とか小豆島で働いたセスベデス神父とか,こういった人の生涯を一人ずつ掘り出して伝記を書いていければいいと考えています。また高知の田中夫妻とか高松の石原孫右衛門についても,四国の歴史とあわせながら掘り出していく作業が,これを機会に生まれてくれる事を希望しています。そういう意味で徳島は先鞭をつけてくれました。教会だけではなくて徳島の古文書館,図書館,徳島の郷土史家の助けを借りて結城了雪のいろいろな面が明るみに出て来ました。同じように四国4県の400年前をもう少し丹念に掘り出していく作業をつづけることで,当時のカトリック教会の事が分かれば,これ以上嬉しいことはありません。

    ※司教様チェック済み