年間第3主日(聖パウロの回心の祝日)ミサ説教

2009年1月25日
於:阿南教会

 除幕式の時に,結城了雪神父についての短い話を準備していますので,ミサの中ではパウロの回心の箇所をご一緒に考えていきましょう。
 今日の「使徒言行録」を読んでいきますと,パウロは熱烈なユダヤ教の信徒で,キリスト教は嫌いであり,キリスト教を迫害するという箇所が出てきています。一つのヒントです。「黙示録」という本が新約聖書の一番最後にありますが,この「黙示録」に,「あなたは熱くもなく冷たくもなく生ぬるいので,口からはき出そう」という有名な言葉があります。もしあなたが熱かったら,あなたが冷たかったら取り柄がある。でも生ぬるい限りにおいてあなたに開けるなにものもないと言うのです。私達が教会に入ってきた理由の多くはこんな所にあるのではないでしょうか。何でも良い,だいたいで良い。要領よく,ある意味でごまかして,問題を避けて回っている限りにおいて,信仰の道というのは開けません。徹底して反対していくか,徹底して冷淡であるか,この徹底してというところから,神の恵みが始まるのです。徹底して反対することに燃えたパウロという青年は,突然光を受けます。これが次の箇所になっています。突然光を受けて,彼は視力を失い,光が見えなくなるのです。でも周りにいた人は“光が見えた”と書いています。ところが光が見えた人は神がわからないのです。光を失ったパウロは心の中で声を聞き,声を聞いた人は神を見つけます。心眼で見ると言うこと,すべてが見えなくなった時,心の中で物事を問い始めます。その時人生が見え始めるのです。

 私たちの多くは,そういう体験を経て教会の門をくぐったのではないでしょうか。何となくではなく,人生の問題を感じて,ぎりぎりまで人生に追い詰められたときに,一縷の救いを求め,藁をも掴む思いで,教会の門をくぐった多くの人がいると思うのです。すべてが見えて,すべてが順調で,すべてがうまくいっているときに,神の声は聞こえません。不思議な現象です。パウロは何も見えなくなったその時に,自分の心の中に何かが見えたのです。何かが始まったのです。「心戦」という言葉を聖女テレジアは使っていますが「心戦」を通して神に到達する修行の道の事をさしています。光の道は心の闇を通さないと見つかりません。私たちは自分の人生のすべてが順調な時に,神が見えなくなるおそれがあります。苦悩があったり,諍いがあったり,失業したり,自分を失ったり,精神的に崩れたりと,その時にこそあなたの神への探求の道が始まるのです。パウロは目が見えたということを奇跡と考えています。心の中の戦いを通しながら何かが見えたその時に,神は彼をキリスト教の宣教者としてお選びになりました。
 今日の福音書の中で,選んだ宣教者には二つの権限を与えています。一つ目はヘビを握るという権限です。すなわち,悪の力に対して戦う力を与えます。一度神を見つけた人,一度自分の小さな悩みを乗り越えた人には,現在この世界に巣くっている悪,この世界に巣くっている苦しみ,この世界に巣くっている罪,これらに対して立ち上がって戦う力が与えられます。それからもう一つは,病人に手を置いて癒す権限です。宣教をする人たちにはこの二つの霊能が与えられます。現代の悪に向かって敢然と立ち向かうこと,もう一つは現在の世界の中で苦しむ人に,手を差し延べ,癒し,慰める,こういう霊能が与えられます。

 今日私たちは結城了雪神父の記念を行っています。まさに結城了雪神父は敢然と立ち向かう強さと,人の苦しみに対しての優しさを兼ね備えている人です。それこそが,カトリック教会の司祭だということを理解させてくれています。

    ※司教様チェック済み