祈祷一致週間説教

2009年1月19日
於:桜町教会

 今日は最初にペトロの書簡が読まれ,それからマタイの5章が読まれました。そこでこの2つの話をさせてください。
 まず第1にペトロの書簡です。このペトロの書簡は洗礼の時に読まれた書簡,あるいは洗礼の時に話されたペトロの話という書簡になっています。すなわち,新しく洗礼を受けた人にはこういうことが大事なんですよということを書いている,それがペトロの書簡になっています。キリスト者として洗礼を受けたらどういう道を歩むのかということを説いて聞かせています。余り長くない書簡ですので,よろしければ家に帰ってもう一度開いてくださればうれしい。まず,ペトロの2章の21節〜25節,先ほど読んだ箇所です。その前の箇所から今日の話に移っていきましょう。
 まず,キリスト者として洗礼を受けた者は,移ろいやすい世界の中に生きているということを自覚することを前提として話しています。野の草や花のように,今日咲いて明日は散っていく,こんなに移ろいやすい世界に生きているのです。問題は,この移ろいやすい世の中でその一瞬一瞬の出来事だけに一喜一憂していれば人生の本質がつかめません。さもないとこの世界の出来事に飲み込まれてしまって,この世界という枠から一歩も抜け出せなくなる。このときに,あなたは生きているという意味がわからなくなります。
 同じように今,時々のその感情とか,時々の欲望に流されていますと,ことの本質が見えなくなるという問題提起をしています。例えばあの人が嫌いだとかあるいは受け入れられないとか,これは気持ちが向かない云々…。こういう今の気持ちに翻弄されていたら,それが高ぶって絶交ということになりますし,もっと高ぶったら暴力沙汰になってしまいます。
 ペトロは,こういう気持ちを切り替えて,大事なことは自分が移ろいやすいこの世界に「寄留の身である」ことをわきまえなさいと勧めることから始めています。何をそんなに憎んだり,そねんだり,ねたんだりするのか。永遠ということを考えたら,これはほんの一瞬の過ぎ去っていくものなのです,こういう視点に立って今のできごとを見てご覧なさいというふうに勧めています。永遠の命というものに目を向けるときに,この世のありとあらゆる思惑が消えていくものです。腰をドシンと据えてご覧なさい。神様の手の中で自分の永遠の命にまなざしを向けたら,この世に起こるたいがいのことを乗り越えることが出来るものです。これが,今日のペトロの書簡の前提になっている箇所です。

 けれども,だからといってこの世のことをおろそかにすることは許されません。だから,17節では「すべての人を敬い兄弟を愛し神を畏れ王を尊びなさい。」とあります。洗礼を受けた新しい信者に勧めている言葉です。移ろいやすい世の中にあるからこそ,あなたは襟をただして自分の生活を潔いものにしなさいと勧めています。その時々の感情に身をまかせて,自分の品性を卑しめてはいけません。口汚く生きることは許されていません。今の時をしっかり生きること,それが永遠の命につながるということを私たちはわきまえています。こうして,聖アウグスチノが言う「あなたに憩うまで私は安らぐことはない」という希望を持ちながら,毎日毎日をより良き世界の構築に向けて歩んでいくことになります。
 洗礼を受けた私たちは,この毎日毎日の生活をよりよき社会を構築するという義務を負っています。戦争とか暴力沙汰だとかは,この世のことに関して損得を追求した結果から起こってくるものです。損をした,または失ったという思いが執念となって,力でねじ伏せてでもこれを取り戻そうとします。何度も何度も私たちが経験していることです。力でねじ伏せられると今度は力で押し返して,復讐する機会を眈々として狙うものです。こうして暴力と戦争の連鎖が続きます。そして,どこでとどめを刺せばよいのかわからなくなってしまいます。今のイスラエルとパレスチナのあの悪状況を考えてみれば,一目瞭然だと思います。どこでどのようにこの連鎖を切るのでしょう。

 ここでペトロは,キリストに従うあなたは新しい信者として次のように勧めています。「ののしられてもののしり返さず,苦しめられても脅さず,正しくお裁きになる方にご自身をゆだねられました。キリストにならってください。」,ペトロは最後に,あなたはキリストの生き方にならうためにこうしなさいという言葉で結びます。「最後に,あなた方は皆心を一つにし,思いを同じくし,兄弟愛と慈しみの心を持ち謙虚でありなさい。悪をもって悪に,ののしりをもってののしりに報いてはいけません。かえって祝福をもって報いなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたからです。」。ペトロは今,新しい洗礼を受けたばかりの信者にこんこんと諭しております。悪に悪を,ののしりにののしりをするのではない,祝福をもって報いる,こういう心がキリスト者,キリストにならう者の心なのですよと,これで文章を締めています。けれども,口で言ってこれを行うのがなんと難しいことでしょう。聞いている皆さんも実感されていると思います。でも洗礼を受けた私たちは,キリスト者としてこの道に従うしか道がありません。これが私たちの主キリストが教えた基本的な教えだからです。
 同じことを,マタイの福音書の5章は38節から48節までに言っています。イエスの口を通して語っています。ご存じのとおり,マタイの5章から7章というのは,昔はこういう風に教えられた,しかし私は言うという文章法を使って山上の垂訓を話しています。今まで言われた法律・掟,これを私はこういう風に解釈しますよというのが,マタイに言われている5章から7章までの山上の垂訓になっています。「目には目を歯には歯をとあなた方は聞いている。しかし,私は〜イエスは〜あなた方に言う。悪人に逆らってはならない。もし誰かがあなたの右のほほを打ったなら,ほかのほほをも向けなさい。またあなたを訴えて下着を取ろうとする者には,上着をも取らせなさい。あなたが無理に1マイルの道を歩かせようとするならば,一緒に2マイル歩きなさい。」ペトロが話しているあの同じことをイエスの口を通して話されています。目には目を,give and take ,損得に基づく正義感を乗り越えないといけないのですよという教えが書かれています。

 無手勝流という日本語の表現があります。悪の連鎖を断ち切るためには,徹底して武器を捨ててかからないといけない。徹底して暴力を捨ててかからないといけない。これが福音の教えに基づいたものです。黙って十字架上に死んだあのイエスというお方,これこそ私たちの救い主なのです。私たちキリスト教の歴史でも憎しみに憎しみを重ねた体験をしてきています。今もなお自己の主張や損得勘定に振り回されて憎悪をあおっている面があります。もういい加減にこういうことはやめにしないといけません。ある人は無手勝流なんて言うのは非現実的であり,世界の政治を考えるときそんな便法は通用しないと反論する人がいます。でも,今読まれたペトロの書簡,今読まれたマタイの福音書山上の垂訓を読む限りにおいて,こうとしか読み取れないということです。
 世界の平和も安寧も,すべて神の手の中にあるのであって,人間が出来ることと言ったら本当に限られたものに過ぎないということを私たちはよく存じています。そしてその限られた人間が大事にすべきことは,福音に従って非暴力を貫くということです。種々の形で私たちの周りを暴力がおそっています。単なる戦争だけではない,私たちの周りをおそっている暴力,沢山のものがあります。非暴力で生きることは,弱々しい人間なのだという反論も出ています。そうではありません。非暴力をもって生きるというのは強く,たくましい意思力が要求されているということも私たちは知っています。まず私たちは,教会の洗礼を受けて信者となっているときに,徹底して非暴力を生きるという誓いをしていると納得しなければなりません。せめて私たちはキリスト者の集まりにおいて,襟を糺してペトロの勧めをもう一度真剣に聞くことにいたしましょう。「ののしられてもののしり返さず,苦しめられても脅さず,正しくお裁きになる方にご自身をゆだねられました。そのようにあなたもあなた方も皆心を一つににし,思いを同じくし兄弟愛と慈しみの心を持ち,謙虚でありなさい。悪をもって悪に,ののしりをもってののしりに報いてはいけません。かえって祝福をもって報いなさい。」。素直に読めば,福音は私たちに,私たちは決して暴力に暴力をというものの見方をしてはいけない。暴力には祝福をもって向かわないといけない。どこかで悪の連鎖を断ち切るためには,私たち自身が徹底して非暴力を生きる,こういうことを福音は伝えています。

    ※司教様チェック済み