列福式を終えて
あけぼの 2008年12月号
日本のカトリック教会は、11月24日ローマ教皇大使を迎えて、17世紀に殉教した人々を福者とみなす式を盛大に執り行った。3万人を超える参加者があり、日本のカトリック教会にとっては今世紀最大のイベントであった。私は列福運動の推進母体である日本カトリック司教団から推薦されて、日本殉教者列聖列福司教特別委員会という、ものものしい名前の委員会の委員長に任命されて、この数年間その任に当たった。この委員会の主な役割は啓蒙の仕事で、カトリック教会内外に殉教者の主な出来事と殉教の意義を伝えるという任務である。啓蒙の仕事にかかわるということは、種々の反応に対応することも意味している。好意的に受け止めて下さり方がある一方、かなりシビアにこの運動を見ている人も少なからずあり、手厳しい批判をも頂戴した。それらの批判を通して殉教の本質が見えてきたことと、これらの批判に答えることで、現代にも通じる問題がそこにあることに気づかせてくれたことは有難かった。
批判の主なもの
多くの批判があったが、ここでは次の2点を取り上げる。その第一は、遠藤周作に代表される現代の作家たちの視点であり、転んだ者の視点から信仰を生きるとは何かを追求することの方が大事ではないかとの異論である。私は転んだ人を追求する気持ちは毛頭ないし、これらの作家を十分評価しているつもりである。ただ、ある時点で転ぶ方を選ぶか、あえて教えに殉ずる決断をするかは、その人の生き方の岐路であることは確かである。"底なし沼のような日本社会"に蒔かれたキリスト教は、いつの間にか日本教に変貌すると述べる。ロ−マ教皇ベネディクト16世は、現代は相対主義の時代であり、あれもいい、これもいいということで、確固たる信念に欠けていると言う。グローバル化の時代、多文化、他宗教が混沌と散在する現代、不変の真理なるものをひっさげて現代に立ち向かうのは容易なことではない。それでもあえて、"正しいものを正しい"と言明する生き方を教皇は主張しているのであって、そのために教えに殉ずる行為を殊に顕彰している。
その昔、ファビアン不干斎(ふかんさい)というイエズス会の修道士がいたが、彼は修道会を脱会して後「破堤宇子(はでうす)」というキリスト教反駁の本を著した。彼はそこで、キリスト教が日本に受け入れられず、なぜ迫害されるに至るかを述べている。それはキリスト教が一神教だからだというのである。一神教を絶対とするキリスト教は他宗教、多文化を国の基本とする日本と衝突したという。ファビアンによると、日本は自然の理(ことわり)を大事にしているのであって、恩寵とか啓示とかいう上からの押し付けである教えを嫌うという。不自然な宗教、例えばカトリック教会で行われる告白とか、終生独身を誓う修道生活とかはナンセンスなのである。ましてや殉教などは自然の理に反していて決して許されない。教えのために死をも辞さないと教える宗教は、日本には一害あって、何の利益ももたらさない。日本の土壌には決して合わないと強く主張する。
次の大きな批判は、教会の論理にのみ偏っていて、迫害した人、または国家ということを考えていないということである。むしろ迫害にまで追い込んでいった教会の宣教のあり方、またはその体質に問題があるとみている。世界に強力な王国を築くことを夢見ていたイベリア半島の人たちは、国家事業の一環としてキリスト教を宣教するという考えを持っていた。国家を背景として当時の宣教師たちが宣教事業を展開したということは、多くの障害を東洋の涯の日本にもたらした。教会内部での争い、日本人聖職者との葛藤、ひいては中央集権に成功した豊臣、徳川政権との相剋などであった。だからと言って当時の宣教師を責めるつもりは毛頭ない。彼らも時代の子であり、その時代の考え方の枠を超えるのは容易なことではないことを私たちは知っているからである。彼らに過去の出来事と、それにかかわった人々を責めるのは好ましくない。
キリシタン時代に見える現代
これらの批判を受けて感じることは、グローバル化の時代に絶対を主張することはタブーであること。歴史の中に徒に超自然を持ち込み、確固とした信念を生きることを強調することに抵抗があるということである。ファビアンによると、人は結婚して子供を産み、働いて家族を養い、老いて自然の中で往生する、これが人生の理想なのである。この普通の生活の中に何かの足しになる宗教は認めるが、不変の真理を掲げて迫害や分裂にまで追い詰めていく宗教は御免なのである。
問題は平穏無事に自然のままに生きることを許さないグローバル化の時代に生きているということである。この世紀の変動はあまりにも激しく、世界の趨勢に大きく左右されて生きざるを得ない時代に生きているという事実がある。世界の経済に翻弄され、いつ人生の岐路に立たされるかも分からない。はや、自分の人生だけを考えていく時代ではないのである。そういう時代だからこそ、確固とした信念に生きる人々が求められていると考えることができないだろうか。
最近面白い論評を目にした。その引用で拙文を終わりたい。「今回の危機で表に出ているのは金融問題だが、背後には経済以外の要因が横たわっている。社会全体を考えずに自分のことばかり大事にする自己愛、自己陶酔の意識だ。・・・。自由がすべて、こんな考え方が経済の世界にも広がっていった結果が現状だ。経済を動かす連中が好き勝手にふるまう。・・・暴力装置を独占し、社会を秩序だてて物事を禁止したり、許可したりする国家が動かない。金融や経済の危機の背後には、こうした文化の変化がある」(朝日新聞2008年10月23日)。
高松教区司教 溝部 脩