主の降誕ミサ説教

2008年12月25日
於:桜町教会

 今日は戦国時代,戦争の最中にどのように昔のキリスト教徒たちがクリスマスを祝ったかを話してみましょう。1560年当時,四国徳島には京都から派遣されて管領という為政者がいました。細川持隆という人でした。ところが時代は下から力のある家臣がのし上がる時代でして,阿波地方で守護代として実力を持っていた三好一族は細川管領を殺して四国の軍勢を率いて京都に上って日本統一を試みていたのでした。
 1563年には三好長慶は京都の足利将軍義輝を追放してしまったのです。義輝は六角家とか畠山家とはかって京都を奪還します。この間長慶も段々年をとり,後を継いで弟の義継が三好家の実権を握ります。この義継の家臣にキリスト者の武士が数多くいました。三木半太夫などは有名な人です。
 1565年,三好長慶の家臣に松永久秀という家臣が居て,徐々に実権を握ってしまったのです。そして勝手に将軍義輝を攻めて殺してしまったのです。そして京都の実権を握ってしまいました。松永はキリスト教が大嫌いでした。京都に司祭を入れるのを禁じました。ところが三好義継とその仲間は松永と対立して争うようになります。松永は畠山家などと手を組んで三好と対抗します。そして手を組んだ仲間の武士の家臣に又信者が居たのです。こうして1566年のクリスマスの頃,2つの勢力が大阪を舞台として戦争が行われるようになりました。
 困ったのは同じ教会の信者たちでした。そこで,旗を立てて信者であることを示し,直接戦わないように工夫しました。また話し合ってクリスマスは敵味方の別なく一緒に祝うことを決めたのです。「キリシタン達は自分らがどれほど仲がよく互いに愛し合っているかをよりよく示そうとした。・・・住民が会合所にあてていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋はクリスマスにふさわしく飾られ,聖夜には一同がそこに参集した。そこで彼らは告白し,ミサに与り,説教を聞き,聖体を頂いた・・・正午には一同は礼装して戻って来た。その中には70名の武士がおり,互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず,あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。彼らは自分の家から多くの種々の料理を持参して互いに招きあったが,すべては整然としており清潔であって驚嘆に価した。その際奉仕したのはそれらの武士の息子達で,デウスのことについて良き会話を交えたり,歌を歌ってその日の午後を過ごした。祭壇の配置や,そのすべての装飾を見ようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく,彼らは中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(『日本史』フロイス)

 長くなるのでこの辺で話を止めましょう。松永久秀が殺した将軍足利義輝の弟に周稾という人が居ました。この人の孫が今回列福された結城了雪神父でした。松永は徳島より足利義栄という義輝のいとこを京に連れて将軍にします。しかしすぐに義輝の弟義昭が岐阜の織田信長に連れられて京に下り,将軍義栄を徳島に追放します。義栄は間もなく死亡し,弟が後を継いで,その弟の孫が義種といいます。この義種の妻が結城神父の妹にあたります。
 とんでもない長い話をしました。どんな時代にあってもクリスマスは,ミサがあり,聖体をうけ,喜びを食事で表現することは変わらなかったようです。又クリスマスに信者でない方が大勢集まってきたのも同じようです。そして敵同士が祈り楽しんでいるのを見て驚いたといいます。教会が持つすばらしさがクリスマスには表現できるようです。

    ※司教様チェック済み