クリスマスミサ説教
2008年12月24日
於:桜町教会
今読まれた福音書の中で,最後に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」とあります。この3年間,香川県で宗教者平和懇話会を続けて参りました。仏教の諸寺院,立正佼成会それからカトリック教会の有志が集まって,3ヶ月に一度の会合を今も続けています。世界宗教者平和会議というのが世界の各地で行われていますが,それとあわせてこの四国でも行おうという趣旨で始められました。香川県の場合でしたら,2005年の京都大会の趣旨を受けまして,四国においても宗教を信じる人たちが世界の平和に向けて何が出来るか考えてみようという趣旨のもとで集まっています。選挙があり会長はなぜかカトリックの私が選ばれまして,副会長を善通寺の管長さんが引き受けてくださっています。すなわちキリスト教と仏教が,共通した平和というのを理解して共に実践していこうとこういう集まりを続けておりまして,今最後の段階に来ようとしています。2年半ぐらいかかりましたが,宗教者としての平和のメッセージというのを作成いたしました。それをすべての神道神社,それから仏教寺院とキリスト教のカトリック・プロテスタントという教会に配布する手はずになっています。ひいては四国の公立の学校に短いメッセージを送りたい,それを通して子どもたちが平和学習の材料に使ってくださればうれしいという気持ちを持っています。来年になりましたら,この平和へのアピールを短いモットーにして,四国全体にアピールしていこう平和の運動を起こそうという風にしています。
このメッセージの骨子は次のとおりです。聖アウグスチヌという人がおられますが,彼は「平和とは秩序の中の静けさ」という風に定義しています。でも考えてみますと,人間どんなにがんばっても秩序や平和を望むべくも無いかもしれない。こんな世界に生きているというのが私たちの現状だから,秩序の中の静けさはなかなか求められない。だから平和でない、戦争があるという状況にあります。カトリック教会で30年前に行われたバチカン公会議では,「平和は人が努めて作っていく秩序の静けさ」という新しい定義を考えています。すなわち手をこまねいていれば,平和が天から下ってくるのではないのだ,あなたも努力しないといけませんよと,こういう意味を表しています。
平和懇話会では,この平和を実現するためには「私たち宗教者が慈しむ心を持つことが肝要である」という合意に到達しました。慈しむ心。仏教でいう慈しむ心とキリスト教でいう慈しむ心は少しニュアンスが違います。でも基本的には変わらないかなと思われます。森羅万象,すべての生物・人・自然を慈しむ心,これが大事なのだ,この心から平和の構築がなるということ出発点としています。この慈しむ心を涵養することが,宗教を信じる者の第一のことである。慈しむ心の反対,それは蔑む心を表しています。聖書の表現を使いますと,蔑む心というのは嫉妬とか非難・憎しみ・虚栄。これらから少しずつ脱皮していかないと,慈しむという心に到達しない。宗教を信じる者が究極に求めていくものは,慈しむ心を持つことに到達することだという結論を私たちは持つことが出来ました。でもこの慈しむ心はどうすれば与えられるのでしょう。どうすれば自分の身につけることが出来るのでしょう。人は努力すれば,これらのものが自分の身につくのでしょうか。自分がそれを身につけていると思うとすれば,それは心のおごりです。そんなものは,なかなか身につきません。人間は本来おごった動物と言ってもいいでしょう。すぐ威張りたがります。すぐ蔑みたがります。この心を乗り越えていくために私たちは上からの力を信じている。これが宗教者懇話会が到達した結論と言っても良いと思います。あるいは,文部省の表現を使いますと,「大いなる力が与えられて,初めて慈しむ心ができます」ということを述べています。「大いなる力が与えられると信じて合掌する心」,これを宗教心と呼んでいます。このような慈しむ心を持って合掌するところから,平和が構築されていきます。平和運動と言いますと,すぐ,デモをしたりあるいは人の前で宣伝したりということを考えたがるのですが,平和を構築するためには,平和のために祈る,合掌する心を持つ,手を合わせる謙虚さを持っていることが必要であると私たち宗教家は考えています。手を合わせないで拳を振り上げたときには,平和は訪れて参りません。私はあえて大いなる力という表現を使いました。これは仏教のこととか諸宗教のことを考えての表現です。キリスト教でしたら,神の力という表現を使っています。大いなる力というのは十数年前,文科省の前身の文部省が中学の道徳の指導要領で「大いなる力または畏敬の念を教える」ということをその指導要領に入れました。そして,それに反対する先生たちの運動が起こって一問答起こしたのを私は良く覚えています。
言いたいのはこれです。道徳心の涵養のためには上からの力あるいは大いなる力,宗教心が必要なのだということを言いたいのだと思います。
すさんでいく世相にあります。特に今不況が押し寄せてくる中で,私たちの世相が非常にすさんでくる。それは子どもたちの世界にも及び,すさみ,その中でいろいろな事件が多発しています。こういう世相であるからこそ私たちは宗教が必要であるということを叫んでいます。今日ここに,ミサに与りに来られている皆さんの中には初めて教会を訪れる方がいるでしょう。宗教を良く理解できない方もおられるでしょう。私たちは声を上げて,四国のいろいろな宗教と声を合わせながら,今私たちはもう一度世界に平和を,私たちの生きている世界に新しい秩序を求めていく必要があるということを強調しております。
こういう意味で,今日「御心に適う人に平和」。どうぞここにおられる皆さん一人一人が御心に適う人であるように。心を安らぎ慈しむ心を持って人と交わり,暖かい優しい心を持ってこのミサから,クリスマスのこのお祝いから出て行かれて,自分の家庭で自分の職場で慈しむ心を持って人々と接することが出来ることを希望してやみません。
※司教様チェック済み