ペトロ岐部と187殉教者列福式−前夜祭

2008年11月23日
於:長崎浦上教会

 

 中浦ジュリアン神父の子供のころの話をしながら教会の中で司祭職あるいは奉仕職、奉献の道を歩むとは何かを考えていきたいと思います。
 まず、ローマのバチカンの図書館にシスト5世の間があり、その壁画として天正少年使節の行列の図が現在も見られます。もしシスティーナ聖堂に行くような事があるならば、ほんの少し足を延ばせば、その絵を見ることができます。これは1585年の4月12日グレゴリオ13世が逝去され、彼の後継者としてシスト5世が選ばれてその戴冠式に日本の代表として少年使節が参列した図が描かれております。少年使節は4人でした。でも、この絵には3人だけしか描かれていません。描かれていない少年はあの188殉教者の1人、中浦ジュリアン神父です。彼は熱がひどくて病床に就いたままでしたので、ローマに居ながらローマ教皇の戴冠式に与れませんでした。私は少年ジュリアンが華々しい場面に登場しないだけにとても興味を惹かれ、素晴らしいと感じることが多々ありました。
 1582年(天正10年)2月一艘のポルトガル船が長崎を出帆します。現在の長崎県庁の下が長崎港でした。そこから船が出て行きました。大勢が桟橋から見送っております。ジュリアンのお母さんもお姉さんもその中におります。その船には先ほどの4人の少年がいました。大友の名代・伊藤マンショ、大村と有馬の名代・千々石ミゲル、副使として原マルチノと中浦ジュリアンの4人です。いずれも12・3歳の少年でした。彼らは選ばれ、インドを通って遠く旅をすることになりました。少年使節については多くの本が述べていますから、私はここであえて繰り返さない事にします。ただ、4人の中で一番目立たなかった中浦ジュリアン神父について触れて見ます。
 ジュリアンは肥前の国、中ノ浦の代官・中浦中務の息子として生まれています。現在の長崎県西彼杵郡西海町の出身です。1580年(天正8年)にバリニャーノ神父が来日し有馬にセミナリオを創設しました。即ち中学、高校生の年代の少年たちを教育する施設で、将来司祭、あるいは日本の教会の指導者の育成を見据えていました。
 そのセミナリオの一期生の中から4人が選ばれてローマへと送られることになります。この旅を企画したのはアレクサンドロ・バリニャーノという神父でした。バリニャーノ神父はアジア全地区の巡察師、すなわち視察して回り、必要に応じて改革を施す為の全権を持って、アジア全体を統治した人です。
 来日したバリニャーノ神父はその時代の日本教会にとって一番大切なことは少年たちを養成し、若い人を育て、これを通して将来の教会の柱とすると云うことでした。400年前の教会が最優先課題、一大方針として取り上げたことは、青少年を養成し、育成し、20年、30年後の教会の柱とすることでした。その一環として4人の少年たちがローマに送られます。
 すなわち、ヨーロッパのキリスト教にじかに触れさせ、それを通してキリスト教の本質を理解すること、将来の日本のキリスト教の中心人物となることを期待していました。けれども、このバリニャーノ神父の方針に反対する人が沢山いました。「何故そんな幼い子供たちを遠いヨーロッパに送る必要があるのか。」「大人たちが考えている権力欲のようなものに子供を利用しているのではないか。」「堅実ではない夢のような賭けをしているのではないか。」といったような批判がバリニャーノ神父に浴びせかけられました。実際この神父の考えた案は非常に壮大で、遠大なものでした。日本の若者をヨーロッパに送り、ヨーロッパの現実を見聞きさせ、東西の懸け橋として将来の日本教会の指導者にする、ということを目指していました。
 ここには私たちにとっても、考える材料があると思います。私たちの教会は何を優先課題としているでしょうか。青年が来ない来ない、と絶えず嘆いている後ろ向きの教会ではないでしょうか。若い人に視線を送り、どのように育てるかを真剣に考える時代が訪れているのではないでしょうか。子供だからこそ政治の駆け引きもなく、皆が受け入れてくれるとバリニャーノ神父は信じていました。この子供たちは今後はどうなるか分からない、将来も良く見えない、かけて見るより他にない、これが彼が持っていた信念です。批難の交錯の中で彼は弁明書(アポロジア)を書かなくてはならなくなってしまいます。それを読みますと、当時どのように青年について考えていたかがよく分かって参ります。若者というのはビジョンを持ち、若者たちに夢を持たせる指導者に確かに惹かれていきます。事なかれを念願としている大人には決して分からない青年の心です。私たちはどんなビジョンを持っているでしょうか。どんな夢をこの青年たちに語るのでしょうか。夢を語らない教会がありすぎるのではないでしょうか。青年が来ないと嘆いてばかりの教会の姿を見せています。青年は将来を共に考えてくれる指導者がいれば未知の世界にあえて踏み込んでいくものです。ただおぼろげながら事の重大さは、彼なりに分かっていたと思います。ジュリアンがこの旅の意味をどれくらい判断できていたか私には分かりません。
 そしてローマまでの旅が自分の人生に、決定的な意味を持つということを理解するのは、その晩年でしょう。殉教のその時、彼は西坂の丘を登りながら「私はローマに行った中浦ジュリアンです。」と、最後の言葉を残します。何を意味したのでしょう。当時の旅というのは実に長い旅でした。1582年2月20日に長崎を出帆して、実に2年半の歳月を経てヨーロッパの土を踏んでいます。ですから、現代で言いますと中学の3年間を船の上で過ごした、とこんな風に考えることができます。マカオ、ゴアを経てアフリカの喜望峰を回ってリスボンに到着したのは1584年8月になります。
 この旅行中バリニャーノ神父は彼らに先生を付けます。日本語、ラテン語、ポルトガル語を学ばせます。また、楽器の練習もさせます。他の学科の勉強も絶えず続けられて行きます。これをとって見てもバリニャーノ神父がいかに偉大な教育者であったかを私たちは理解することができます。彼らはヨーロッパに到着してイエズス会の修道院に宿泊します。
 当時のヨーロッパは政治の駆け引きと背徳のるつぼでした。ルネッサンス時代のその後を受け継いだ非常に乱れた時代でもありました。バリニャーノ神父は彼らに、その乱れたヨーロッパを見せる必要はない、と考えていました。人生はドロドロとしたものであり、遅かれ早かれ私たちは人生の汚辱にまみれることはあるでしょう。しかし初めからそれを知る必要があるのか、とバリニャーノ神父は問うています。子供は小さい時に清らかな夢を持つ。これは将来どんな汚辱にまみれても、その夢は将来その人を支えるものとなる、という信念と教育観を持っていました。人生で必ず遭遇せねばならない汚点を乗り越える段階まで、少し待ってあげる必要があるのです。
 私たちは時々、何でも子どもに知らせたらいい、何でも早くから分からせればいいという考えを持っていますが、それは多分、間違いだと思います。幼年期に穏やかな父母の愛を受けた子供たちは、その温かい愛に包まれて、たとえ人生の汚辱、晩年の苦しみがあったとしても、きっとそれを乗り越えていく何かを身につけていくものです。リスボンでスペイン王代理のアルベルト枢機卿の訪門をはじめとして、ヨーロッパに名を残す人々と出会っていきます。スペインには当時新しい首都マドリードが築かれていました。そこでフェリペ2世、その家族と云った人々と親しく交わっています。イタリアに着くとトスカーナの公爵夫人ビアンカ王妃の招待で舞踏会に招かれたりもしています。正使はマンショとミゲルということでこの2人の名前は絶えず登場します。控え目なジュリアンの名前はあまり出て来ません。けれども、面白い場面で彼の名前が登場します。舞踏会の招待主ビアンカ王妃はその美貌で有名でした。そのビアンカ王妃がまず初めに伊東マンショを踊りの相手に指名します。それから千々石ミゲルへと一人一人に回っていきます。最後はジュリアンの番です。彼はこの美しい王妃にあわててしまって、狼狽して次の踊り相手に動けそうもないお年寄りの女性を指名して、皆が大笑いをしたというエピソードが残されています。こんな事でもないとジュリアンの名前は出てきません。でも、私はこんな彼が非常に好きです。
 彼らは政治と陰謀の渦巻くイタリアの都市を経てローマと向かいます。子供なりに多くのことを理解したでしょう。また指導者に見守られながら徐々に徐々に大人になっていきます。私たちはこういう視点を持つ必要があります。何でもやらせるのではなく、徐々に一緒にやりながら自立する道を教えていく必要があります。夢は大きく持てば持つほど、それを覆すような経験を蒙っても、乗り越えていく力が与えられます。何でも体験させればいいという自由論者とは随分異なっています。ジュリアンはローマを前に病気になってしまいます。病気のおかげで彼の名がまた現れます。そんな事が無ければ彼の名は出て来ないのです。失敗の時、病気の時、これがジュリアンの現れる時です。3月22日、ローマ到着の日にジェズ教会で歓迎の式典があります。でもその間ジュリアンは寒さに震えながら頑張っていますが、翌朝にはもう立ち上がることさえ出来ません。高熱のために床に伏してしまいます。ところがこの日はグレゴリオ13世との謁見の日です。ジュリアンはどんな事をしてもこの謁見に参加し、教皇様に会いたいと医者の制止を振り切ります。こうして彼は人民の広場から駕籠に乗って教皇様のもとに行きます。「教皇様のもとに案内してもらえれば、その祝福を頂ければきっと元気になります。」とは彼の言葉です。いつも控えめで、温順で従順なジュリアンは、この時だけは決して譲れないと、自分を主張します。この時の彼の中に、私たちは西坂の丘で「私がローマに行った中浦ジュリアンです」と言った固い彼の決意を見ることが出来ます。柔和な立ち居振る舞いの中にも、決して譲らない不屈の精神があることを人々は徐々に彼を見て分かって来ます。"そこで窓を閉じた馬車に移され、ピント卿の案内で教皇に謁見してその足に接吻し、優しく抱擁を受けた。"と云う報告があります。教皇様はこの熱にうなされている少年を抱いて接吻し、早く帰りなさいと、命令します。こうして他の3人が公式の謁見に参加している間、ジュリアンは1人病室に戻らなければならなくなります。ローマの貴婦人は彼の食事の準備をし、洗濯の奉仕を受け持ちます。その後4月12日にはグレゴリオ13世が逝去されます。そしてシスト5世が選ばれます。5月1日、新教皇の荘厳な戴冠式がローマの司教座聖堂ラテラノ大聖堂で挙行されます。その時、初めに申しました盛大な行列がラテラノ大聖堂まで組まれますが、そのなかに中浦ジュリアンはいません。彼はそれに参加する事が出来ませんでした。病床に伏していました。その後のヨーロッパでの旅の間も、彼は熱のためにまともに起き上って生活する事が出来ませんでした。バルセロナでは、彼はもう起き上がれないと云う事で、25日間もそこに留まる事になってしまいます。こうしてリスボンを立って日本への帰途に就いたのは1586年4月上旬のことでした。早くも彼らは16歳17歳の青年に成っていました。
 豊臣秀吉の宣教師追放令が出ていましたので、彼らは日本に直行できません。バリニャーノ神父の引率のもとで日本の地を踏むのは1590年7月21日のことです。長い年月の旅でした。ジュリアンは20歳の青年になっていました。彼らを見て誰も分からなかったと云われるほど、逞しい青年になっていました。その後バリニャーノ神父と共に聚楽第において豊臣秀吉に謁見します。彼らが秀吉の面前で楽器を奏でると秀吉は彼等に、とても興味を示し、自分に仕官するように誘います。伊藤マンショは2度も誘われます。中浦ジュリアンも小姓組にと提案がありました。彼等はいずれもバリニャーノ神父と相談の上と言って固辞しました。秀吉の誘いを断ったと云うのはおそらく彼らだけしかいなかったのではないでしょうか。彼等は早くも人生の岐路を決めています。すぐさま、天草は河内浦のイエズス会修練院へと入って行きます。生涯神と人に仕える道を長いヨーロッパの旅を通して決定していきます。ヨーロッパを見、ありとあらゆる栄華を見、そして日本でも最高の栄位に上げられたのを目の前にして、それでも別の道をこの20歳の青年たちは選んでいきます。20代前半の若者たちが自分の人生の一番より良い部分を、青春のそれを捧げる決意をします。年をとり人生の無常を悟って隠棲したのではけっしてありません。自分の人生の華やかな部分を神に捧げようと決意した彼らの決断です。"ドン・マンショとドン・ミゲルには世間での知行と名誉が約束されていました。ドン・マンショには関白の方から、ドン・ミゲルにはその叔父である有馬殿から話が有りました。が、彼らは神に仕えるために全てを断りました。"と報告されています。
 若い彼等は人生を悟っていた訳ではありません。しかし宮仕えとは違う人生があるという事が分かりました。
 これで話を終わりますが、それから後、中浦ジュリアン神父の人生の本当の苦しみが始まります。しかし敢えて聖職と云う神と人に仕える道を選んだこの若者の中から私たちの殉教者が生まれた事を顕彰したいと、つくづく思っています。ここにご参列の皆様の中にも、ただ、教会は神父様からして貰うという考えがあるのでしたら、この辺で考えを変えてみましょう。自分たちの共同体の中から自分たちの共同体を導いていく司祭、修道者を産みだす教会共同体でなければ本物ではないと云えば、言い過ぎになるでしょうか。