死者の日ミサ説教(長崎教区野浜神父の高松での初ミサ)

2008年11月2日
於:桜町教会

 本日は私が話すより,今日の典礼の言葉を一緒に読みながら,聖書の言葉そのものを黙想する方がより適当だと判断しました。
 まず,第一の朗読でエレミアの哀歌が歌われております。このエレミアの哀歌というのは,ユダヤの国が滅亡して家族が離散し,惨めさと貧しさの中に落とされてしまった,そういう中から叫ぶものの歌です。こういう風に言っています。「主の救いを黙して待てば,幸いを得る」。黙して待つ,苦難がある時にあるいは困難な時に私たちは走り回ります。騒ぎ立てます。人にしゃべって回ります。もっとひどいときには,神様をいたずらに批判したり毒舌をついたりします。往々にして,全てを人のせいにして人を責めます。エレミアはこんな時に「こういうときだからこそ,黙して待ちなさい」と言っております。本当に苦しんだ人というのは,黙るものです。黙って祈ることを知る,それは本当に苦しむ人の祈りとなって参ります。
 しかし,それができるためにはエレミアは言います。「主に望みをおき,訪ね求める魂に,主は幸いをお与えになる」。ただ黙っているだけではない。神様に希望をおいて黙って祈る。こういうところから幸いが来ます,あなたに平安が与えられると言っています。じたばたしてはいけません。黙って,じっと,座って神を見つめて生きる。神様はこういう生き方を私たちに求めておられます。だから,今日の答唱詩篇は歌います。「神よ,深い淵からあなたに叫ぶ」。文語訳では「我深き淵より汝に叫ぶ」という言葉を使っておりました。
 高見順という詩人がいますが,彼の有名な詩集に「深き淵より」があります。癌をわずらい死を見つめた高見順の魂は,自分の存在の一番深いところから叫びます。心の中の暗闇の中から彼は叫びを持ちます。「この私を救ってください」と。自分の奥深いところにある闇,生涯の中で犯した罪,それをはっきりと見て,彼は謙虚に救ってくださいと頼みます。上田三四二という余り知られていない作家がいいますが、珠玉のような小品を残しています。その物語的な小品の中に、「祝宴」という小説があります。これも,彼が癌を宣告されて余命幾ばくもないと悟ったとき,何気なく見ていた日常の風景がこよなく愛おしくなるということを切々と綴っております。死を覚悟した人というのは,この世の平凡な生活を何よりも愛おしむ心を持っています。
 だから聖パウロは言います。「だから,私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても,私たちの内なる人は日々新たにされています。」。見事な言葉でしょう。人生の年月とともに,私たちの肉体は衰えていきます。目が見えなくなる。耳が聞こえなくなる。.歩くこともままならないようになる。老いていきます。しかし主のみにより頼むことを知った魂は,日々新たにされると約束してくださっています。老いてなお活き活きと生きる、自分に与えられた人生の最後を活き活きと生きる、こんな恵みが与えられる、と言っています。こうしてパウロはつづけます。「私たちは見えるものではなく,見えないものに目を注ぎます。視線を天上に向けています。この世のことにのみ一喜一憂してはいけません。」。どっしりと座ったらいい,黙って主の十字架を見つめたらいい,道が開けると約束します。いかなる苦難もいかなる十字架も過ぎ去っていくということ,そして過ぎ去ったその向こうに永遠の命が始まるということ,光り輝く永遠があるということを,私たちに教えてくれています。今日死者の日にあたって,こういう黙想を自ら聖書をとって黙想してみてください。

 さらに,今日は野浜神父が高松で行う初ミサとなっています。10年前,浜口末男神父は長崎の小神学校の校長でした。私は長崎教区に呼ばれまして,長崎コレジオという神学生養成の学院の初代院長でした。10年経って一人の司祭がこうして誕生いたしました。私たちにとっては,とってもうれしいことです。彼のミサに与りながら,想いも非常に深くしています。野浜神父は学生の時代から非常に地味でして,余り目立つタイプではありませんでした。でも地道に自分の道を歩むということにおいては,間違いなかったかなという気がしています。おそらく葛藤もいろいろあったのでしょうが,周りの私たちはほとんど気づかないぐらい,静かに静かに自分の道を歩んできた神父です。私は長く神学校の院長,校長をし,神学生と関わってきましたが、その経験から言えることは,地味に地道に歩む人が現在司祭として思う存分働いているのを見ていると言うことです。
 今から彼も30代40代50代といろいろな経験を積んでいくことでしょう。信者の皆さんから助けられながら司祭は成長していくものです。きっとその年月とともに,苦労も体験もそれから多分に誘惑もあることでしょう。今日のごミサの中で野浜神父が自分の生涯を司祭として生き抜いていく恵みを,信者の皆さんにお願いしてミサを続けるようにいたしたいと思います。

    ※司教様チェック済み