教区民のつどい香川地区大会ミサ説教

2008年9月7日
於:桜町教会

  本日の集会祈願は,殉教者の集会祈願を使いましたが,第23主日の集会祈願では次のように言われております。「私たちを呼び集められた神よ。あなたはすべての人が兄弟姉妹として生き,一つの民となることを望んでおられます。キリストの名の下に集う私たちが互いに成長を願い,共に歩み続けることが出来ますように。」この集会祈願を通して,教区民の日と併せて,考えるようにいたしましょう。今日の福音書の箇所については2年前にも話をしていて,今出された本の中にその箇所についての説教が載っています。そちらでお読みになって下されば,うれしく思います。

 今日は香川県に限られていますが,年に一回の教区民のつどいを行っています。それは,神の民として一致していることを表す教区民のつどいを意味しています。それでは,神の民というのは何でしょう。神の民というのは,司教・司祭・修道者・信徒が一つになってつくる教会,これを指しています。司祭だけが突出してはいけません。信徒だけであってもいけない。一緒になってつくっている教会のことを指しております。更にこの神の民を導くのが聖霊であり,この民の中に神の息吹が息吹いている。私たちが集まっているこの中に,神の息吹が息吹いている。聖霊によって集められて,私たちは一つの神の民,教会をつくっているのです。
 残念ですが,人間の弱さからくる欠陥のために,常に一つになることが出来ないという現実もあります。その主な原因を探っていきますと,神の民というのを聖霊の導きの下にある教会であるということを忘れてしまったことにあります。すなわち,人間の集まりにしてしまったということです。神の導き,聖霊の導きのもとに集められた神の民ということを強く意識しないといけません。実際,私たちの教区司教の紋章は「聖霊の導きのもとに一つになる教会」ということがモットーとして出されております。私たちは神の民であることが,その裏にあります。あなたは司祭かもしれません,修道者かもしれません。信徒のいろいろな役割を担っているかもしれません。カテキスタであるかもしれません。いろいろな役割を担っている人たちが一つになって,聖霊の導きのもとに教会,神の民をつくっています。誰一人として役に立たないで捨てられる者はありません。ただ,先ほど言いましたように,これが崩れる原因の一つは,聖霊が中に働いているということを忘れて人間の集まりにしてしまうことにあります。いわゆる文化的なサロンのようなものになったり,ボランティアグループの集まりの場所になってしまったり,あるいは信心だけをする自分の小さなグループをつくるということで終わってしまうのです。神の民は聖霊の導きを中心として集まってくる,こういう教会を指しております。

 だから今日の23主日の祈願は,「キリストの名の下に集められた私たちが,互いの成長を願い」。ここに集まってくるこの人たちは,お互いに変わらないといけません。聖霊の導きのもとに,成長しないといけない。昨日のままの私たちであってはいけない。明日に向かって変わらないといけない。
 「共に歩み続けることが出来ますように」という風に祈りをしめます。私たちの願っている一致も愛も,私たち一人一人が聖霊の導きのもとに変わらないといけません。今このミサに与っている私たちは,この教区民のつどいが終わって出て行くときに「ああ殉教者の話を聞いて良かったな」という感覚では,足りないでしょう。それをとおして,あなたがどのように変わるのか。あなたが,あなたの生きている現実の社会の中で,どのように生きるのか。こういう確信を持って出ていくことが大事だと思います。だから,「互いの成長を願い」と言っております。あの人だけが変わるように望んではいけない。自分が変わらないといけない。日々変わらないといけません。私たちのカトリック教会,この四国の教会は,昨日と同じように留まってはいけません。前進するしかありません。昔の夢に浸って,昔のことだけ考えることはできません。現実の前に私たちは新しい一歩を踏み出す必要があります。古巣神父様は,私たちに大きな課題を突きつけております。私たちは何が出来るのでしょう。小さな小さな貧しい高松教区かもしれません。でも大丈夫,私たちが出来ることは何であるかを考えることから始めるように致しましょう。
 先ほども言いましたように,小さな高松教区ですが現状維持に留まってはいけません。どういうふうにすれば,次のステップが踏み出せるのでしょう。どういう風にすれば知恵を出し合っていくことが出来るでしょうか。ここに200人いたら,200人が知恵を出し合ったら,きっと何かが出てくる。聖霊の導きを信じて何かを決定していけば,教会は必ず一歩前に進むということが考えられます。
 だから,今日の第一朗読のエゼキエルでは,神様は「話さないといけない」「あなたが話さないと,あなたは死ぬ」「罰を受ける」と厳しい言葉を使っております。私たちは何を話すのでしょう。今,たぶん私たちの教会は口を開くときが来ているのだと思います。胸を張って自分が信じていることを伝える時期に来ている。そのために,昨年から2年続けて私たちの教区の目標は「宣教」ということにしぼっております。

 もう一度神の民ということに戻ってみましょう。神の民というのは,司祭・修道者・信徒が一緒になって知恵を出しあって,私たちはどんな教会をつくりたいかを考える。その中で聖霊の力を信じて,考え,結論を出したら歩む,こういう教会を指しております。これを高松教区は,協力宣教司牧と呼んでおります。何度も申しましたが,高松教区は「協力して一緒に宣教にあたる」ということを,優先課題の第一にあげております。まだ協力宣教司牧が実施されていない地域もあるでしょう。実施されていても,その本当の意味がなかなか浸透していない嫌いもあります。そのためにはもう少し時間がかかるでしょう。それにしても協力宣教司牧をおこなうという,その方向性において私たちは変わりません。なぜかと申しますと,神の民をつくっていきたいからです。神の民は,あなた方一人一人なのです。私たち一人一人が自分が出来ることは何か,知恵を出し合って,どんな教会を望むのか。こういう問題意識を持たないといけません。誰かが考えてくれるだろうという人任せの姿は,神の民をつくりません。
 今年の目標は昨年に続いて「宣教」ということをあげております。この目標の実現のために,司教も,司祭も,修道者も,それから信徒の一人一人も一緒に知恵を出し合いましょう。一緒に祈りあいましょう。一緒に成長していくようにしましょう。私たちの教会がどんなものでありたいか。真剣に考えるように致しましょう。

 香川県の集まりは,教区の中で最初のつどいとなっています。今から,徳島・高知・愛媛と続く中で,同じ話を続けてすべての教区の人たちに同じことを伝えていくつもりです。

    ※司教様チェック済み