聖木曜日ミサ説教

2008年3月20日
於:桜町教会

 最後の晩餐でご聖体が制定されたことを述べているのは,マタイとマルコとルカの三つの共観福音書です。しかし,ヨハネの福音書はご聖体の制定については何も言及していません。その代わりに,弟子達の足を洗ったという場面を挿入しています。それは何故でしょう。
 聖体,すなわちキリスト様のからだを頂くということは,そのからだをいただくことによって,私たちのからだそのものが,キリスト様の一部分となるという意味を表しています。このからだの中にキリスト様が入ってきて,私たちのこのからだをキリスト様のそれと同じようにしてくださるのです。こう考えますと,ご聖体をいただくことは何とおそれおおいこと,なんとすごいことかと考えさせられます。そして一人ひとりがキリスト様のからだをいただくことによって,ここにいる信者の皆さんが一つの体になる,教会になるということを表しています。従ってミサは,キリスト様のからだをいただくことによって,一つのからだになる交わりの時を持つのです。その時間は本当に愛し合う時,これを表しています。同じキリスト様を,私たちみんな頂いているのですから。
 3人の共観福音史家は,最後の晩餐の時にこのご聖体が制定されたことがとても大事なのだと思ってそれを入れております。しかし,この3人の共観福音書からヨハネの福音書まで20年か30年の隔たりがあります。すなわち,マルコが書いた時代とマタイとルカが書いた時代は,ご聖体の制定というのがとても大事だということを強調して書いたのです。キリスト様のからだをいただくことを強調したのは,ご聖体は何にも代えられないと主張したのです。
 ところがヨハネの福音書が書かれたのは一世紀の終わり,90年代に書かれています。一世紀の終わりには,聖体を制定したという考えは教会の中に定着していました。従って,ヨハネはこれを強調するより,別の場面,足を洗うということを書きました。ご聖体を前提として,さらに足を洗うという意味を分からせようとしたのです。
 イエス様は食事が終わって,弟子達の足を洗います。これはご聖体を頂いた者が行う行為が何であるかということを示しています。イエス様の言葉を借りますと「仕えられるためではなく,仕えるために来た」ということを,自ら率先して見せたのです。あるいは「自分にあいさつしてくれる者にだけ,あいさつしたところで何の意味があろう」という意味も表しています。従って,この洗足の箇所を導入することによって,ミサに与って,ご聖体を受けた人は何よりも人を愛し,人に仕えることを実践しないといけないとヨハネは言っているのです。
 一世紀の終わりに教会は分裂したり,仲違いをしていました。ユダヤ人とユダヤ人でない人々,あるいは古いキリスト教徒と新しい若いキリスト教徒,イエス様の教えについても考え方が分裂していました。いわゆる最初の異端の時代というのが始まっていました。一世紀の終わりに教会は,司教・司祭・助祭という制度を通しながら教会の一致を守ろうという動きを見せています。ヨハネが感じていたのは,教会があまりうまくいっていない,すなわちご聖体をいただいているけれど,本当に愛し合っていない。これに対して,洗足,イエス様が足を洗ったという事実を付け加えて述べているのです。いたずらな派閥争いをしたり中傷したりしている人たちに向かって,イエス様は足を洗った,自分に挨拶してくれる人だけの足を洗ったのではないと主張しているのです。教会でキリスト様のからだをいただいた私たちみんなが兄弟なのです。お互い愛し合うことをしなければいけないということを見せようと,彼はしていたのです。ヨハネは3つの福音書に記されていない場面を,描きたかったのです。足を洗ったイエス様にならって,ご聖体をいただく皆さんもお互いに愛し合う行為をしないといけないとのメッセージを投げかけたのでした。
 こうして教会は,早い時期から聖なる木曜日のミサの中に,典礼の一部として洗足の式を導入しました。残念ですが,現在この儀式を単なる形式にしてしまっている嫌いがあり,多くの教会でこれをしないということがありますが,それは典礼的によろしくありません。洗足式は聖木曜日の典礼の一部である。これを理解しないといけません。
 四国の私たちの教区にあっても,私たちが行っている礼拝の深い意味を悟り,ご聖体の深い意味を悟り,何よりもご聖体をいただくことによって,教会を愛する,兄弟を愛するとともに教会を作るということが必要ではないかなと思います。これを通して,愛し合う教会の姿を実現していこう,これを表現するのが今日の洗足式になっています。

    ※司教様チェック済み