受難の主日説教
2008年3月16日
於:桜町教会
さきほど,聖堂の外で入祭のときに読まれた福音書の中で,エルサレム入城の場面に対して,非常に印象的な場面があります。すなわち,イエス様は子ロバにのって入城するという姿です。端的に今週一週間の私たちの姿を表現しております。注釈がこういう風についております。「柔和な方でロバに乗り,荷を負うロバの子,子ロバに乗って」という旧約聖書の引用をしております。考えてみますと,なんと滑稽な姿でしょう。世界の王様が,子ロバに乗って荷物を背負って一緒に入ってくるという表現をしています。だから,続いて「都中の人が,いったいこれはどういう人だと騒いだ」という言葉が付け加えられております。周りで見ていた人たちは,なんと馬鹿で滑稽で愚かで下らんと思いそして騒いだと,そういう場面を私たちに想像させております。颯爽と車で乗り付けてくる鞍馬天狗のような救い主であったら喝采したかも知れません。でも聖書ではあまりそういう場面は出てきません。
この方を説明するのに,「この方は柔和な方であって子ロバに乗って来られる」という説明が加えられております。子ロバに乗ってこられる方は柔和な方という表現です。現代には,すべてをスピーディーに解決して人生の問題にすぐに返事をする人生相談がたくさんあります。でも,イエス様はスピーディーにすぐに返事を与える方では無いようです。柔和な方,じっくりと聞いている。相手の立場に立って物事を考えようとする。相手自身が分かって相手が成長し,自分で成長していく,そういうことを考えているお方。柔和な方,子ロバに乗ってくるというのはこういうことを表しております。しかも,荷を負うロバのように,子ロバのようにといっている。人の罪を背負って,重荷を背負って歩いている,こういう方ですよということを表しております。
聖週間の中で,金曜日には屠所にひかれていく羊というのを,イエス様に喩えて朗読させております。イザヤの預言書をこんなふうに引用しております。「輝かしい風格も,好ましい容姿もない。彼は軽蔑され,人々に見捨てられ,多くの痛みを負い病を知っている。彼が担ったのは私たちの病,彼が背負ったのは私たちの痛み」。見事な表現だと思います。黙々と人々の重荷を背負って歩いておられる,それが私たちの主イエスです。それに比べますと,私たちはなんと横柄で傲慢で自分だけで何でもできると思い込んでいませんか。役に立たないものは捨ててかかっている,今すぐ役に立つものだけを求めて,こんな生き方をしていないでしょうか。イエスの十字架を,私たちは本当に心から信じているでしょうか。洗礼を受けて何十年もたっても,イエス様のあの愚かさというのを,本当に自分の生き方の信条としているでしょうか。この世で生きるためには強くならないといけないということとか,学歴がないとだめだとか,能力がないとだめだとか,本心はそう思ってないでしょうか。黙々と黙って子ロバに乗って,人々の苦しみを受け止めていく主の姿,これを今週ゆっくりと私たちは黙想してみる必要があります。
パウロは,フィリピへの手紙の中で有名な言葉を残しております。「キリストは神の身分でありながら,神と等しいものであることに固執しようとは思わず,かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じものになりました。」イエス様の姿を真に表している表現だと思います。
今週は,十字架を見つめる週間となっております。そして,十字架を見つめながら胸を打つ週間ともなります。自分の傲慢さ,思い上がり,これらをイエス様の十字架がたしなめております。もっとへりくだって許しを願いなさいとおっしゃっている,このイエス様の思いというのを,今週のこの聖週間の中でじっくりと味わってみるようにいたしましょう。
※司教様チェック済み