発展するキリシタン時代の教会と現代(PDF版123KB)

2008年2月3日
於:高槻教会

 「キリシタン時代の教会」についてお話したい。キリシタン時代の教会には、司祭は不在なのに、信者を増やしていったのはどこに原因があったのか。どんな運営をしていたのか。現代的な問題を、キリシタン時代が与えていると言えると思います。
 皆さんは「教会」と言われたら、どういうことを連想するでしょうか。昔の教会って、どうだったのだろうか。今の教会と昔の教会は同じだったのだろうか。どういうシステムだったのだろうか、という問題提起です。
 山形県の米沢の教会を例にとりながら、考えていきたい。我々が考えもしないような教会を、昔の教会は作っていたのです。米沢教会には、神父さんはいません。1年間ぐらいを除いて、司祭は1度もいたことがないし、住んだことさえないのです。しかし、教会は厳然としてありました。信者の数は3000人を超えていました。そして、53人もの殉教者をいっぺんに出したほどの教会だったのです。でも、神父さんはいなかったのです。
 現在、45万人の日本人のカトリック信徒数で、司祭の数は1553人(日本人司祭926人・外国人司祭627人)です。290人の信者に1人の司祭がいることになります。ブラジルの国では、何万人に1人です。
300人に1人などという国はありません。恵まれています。司祭と修道者を合わせると、何と50人の信徒に1人の聖職者がいることになります。こんなに恵まれた教会が世界のどこにあるでしょうか。少し発想の転換が必要です。
 キリシタン時代を見てみましょうか。今述べたような状況は、全然ありません。それなのにキリシタン時代には、考えることが出来ないほどの信者の増加を示しています。これは何故なのでしょうか。
 一方今日の恵まれた状況の中で、停滞し、ずっと横ばいできている日本の教会とは、何なのでしょうか。どこに違いがあるのでしょうか。
 キリシタン時代の司祭数は1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して10年後の
1560年には2人しかいません。
1570年に6人。宣教の地域は九州、中国から京都にまで広がっています。集団改宗が続き、キリシタン(以後信徒)の数は20万人近くになっています。しかし、司祭は6人のままです。
1577年、司祭20人。
1587年、「伴天連追放令」が出た年、司祭28人。
1590年代、司祭40人・信徒30万人
1602年、イエズス会の他にフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の司祭も加わって68人
1612年の司祭がいちばん多かった時で108人。信徒50万人。宣教地域は東北にまで及んでいます。(広範囲に散らばった5000人の信徒に1人の司祭)
 信徒の共同体があり、その共同体があるところを神父さんが訪ねる。神父さんは信徒たちに特別なことをする訳ではない。信徒のリーダーたちと話をして、基本的な教えを伝えて、聖体を準備し、また次の所へ行く。特別な教会堂がある訳ではありません。信徒のグループがある所が教会なのです。そこを回っていく神父さんが、全部でたったの100人です。巡回して行く所に信徒がいるのです。信徒が自分たちで教会を維持し、自分たちの共同体を作っている。そこに神父さんが行くのです。
 それぞれの教会では、米沢の教会の場合、「談義者」と言われる信徒の代表的な人たちが日曜日の礼拝をささげている。主日の福音書(部分約)を朗読し、説明する。皆でお祈りをする。説教についての分かち合いをする。賛美の歌を歌う。神父さんが残していったご聖体を配る。こういう教会の在り方ですね。力強く信徒の数をどんどん増やしていく教会だったんですね。
 交通の便が極端に悪い時代でしょう?今なら考えられない。神父さんたちは歩いて教会を回っていくのです。ここで司祭の役割が見えてきます。
 米沢の教会では1626年には200人だった信徒が3年後の1629年には3000人になっています。でも司祭が定住したことがないのです。
教会堂もありません。あるのは、談義者と言われていた甘糟右衛門や黒金市兵衛たちの屋敷があるだけです。
 信徒たちは組を作り、いろいろな小さな共同体に分かれて自分たちの信仰を分かち合いながら生活していました。12の男の組と4つの女の組がありました。米沢だけでなく他の地方でも小さな信徒の組がたくさんありました。
 神父さんの働きはそのグループを訪ねて行ってミサを捧げます。秘跡を捧げます。基本的なこととして信徒を中心とした教会の在り方を400年前の教会は実行していたのです。新しい場所での宣教については、神父さんたちは自分たちだけで行くことはしないで、ある人たちと一緒に生活して、キリスト教の理解がうまくいったなと思う人を、新しい所へどんどん送って行きました。今で言うと信徒宣教者を教育して、東北の各地に送って行きました。人々が送られたところに新しい共同体が生まれていきました。このようにして教会を発展させていきました。神父さんたちは生まれた共同体を歩いて回ってミサをし、秘跡をして次の所へ行くという方法をとっていたのです。
 「談義者」とはどんな事をするのでしょうか?当時、聖書の翻訳は全部はありませんでした。でも、各主日のための福音書の箇所などは翻訳されていましたので、それを読み合わせすること。主日には必ず集まり、集会祭儀の司式をする。賛美をし、祈りをし、話しをする。それが終って皆で分かち合いをする。終日には、葬儀、病人の訪問、結婚の司式をし、証人となる。聖体を配っていく。子供に洗礼を授ける。勉強会(教理書を何回も繰り返す。暗記して覚えさせる。子供たちに繰り返し伝えていく)。典礼暦年を知っている(日本歴との対比)。司祭不在の中で、教会の中心であり、徹底して教会を守っている人が「談義者」と言われる人でした。
 九州の浦上では、3親方〔教え方・水方(洗礼を授ける)・暦くり方〕がいたようです。こう云ったことが分からないと、キリシタン時代を理解することは難しいという気がします。
 上位下達的なピラミッド型ではなく、逆ピラミッド型なのです。信徒たちがいて、その信徒たちと共に働く聖職者がいる。そうした中で一緒に働く神の民が作られているのです。今、私達はどういう教会を作っていくのか、真剣に考える時代になって来ていると思います。400年前の教会を見たときに、我々は恵まれすぎている中で、教会の本当の姿を見失っているのかも知れません。
 九州の島原の教会の場合も、見ておきましょう。島原では、50人が1組となって「小組」を作り、それぞれの組を取りまとめている組の親がいました。50人ずつ集まって組を作り、信仰を分かち合い祈りをしていました。50人の人たちにはお金を扱う人や、病人を訪問する人などの役割がありました。また「小組」がいくつか集まって「大組」を作り、それぞれの組に親がいました。さらに大組が全部集まって「総組」を作り、総親がいました。総親は島原半島全体を治めている人(信徒)になります。神父さんはそれぞれの組の親の所を訪ねて行きます。それぞれの組の親たちはお話をし、病者を訪ね、洗礼を授け、結婚式に立ち会う。死者を葬り、勉強を教え、教育をする。米沢の教会の場合と同じで、これらのこと全部 を信徒である親たちがしているのです。「教会」というものに対する見方が全然違っていると言ってもいいと思います。信者が指導しているのですから、大した事が出来なかったのでしょうか。そんなことはありません。
 厳しい迫害の中にあても神父たちはリーダー(談義者、組の親)を養成し、教会を守り、また新しい場所にリーダーたちを送り込む事によって、教会を発展させて行きました。司祭を中心とした教会から信徒を中心とした教会へ。神父さんたちはそれぞれの組を励まし、組を中心として、日本の教会を維持していきました。
 幕府による迫害が強まり、神父たちを捕えて殺していきましたが、キリスト教の力が一向に弱まりません。ようやく教会の活動の中心が信徒たちであることに気付いた権力者たちは、1626年以降、信徒たちへの迫害を始め、組の親たちが殉教していくのです。
 「キリシタン時代の教会」の姿は、現代の教会を考えていく材料を提供してくれていると思います。私たちが当然のようにして持っている教会のイメージは、はたして本当の教会の姿なのだろうかと。この機会に考え直してみたら良いと思います。私達は気付かないうちに官僚主義的に教会の制度を守ろうとしている面があるのかも知れません。そして、それはイエス様の姿からは遠いかもしれないと云う気がするのです。
 歴史から学ぶとすれば、「キリシタン時代の教会」の姿を見たときに、自分たちの今の教会はどうなのだろうか。本当にこのままで良いのだろうか。もっと活力ある発展していく教会の在り方を考えることが出来ないだろうか、と問いたいのです。「発展する教会」にあって、キリシタン史から学べることは、まず、信徒があって教会があったと云うこと。その信徒があった所に司祭たちが訪れたと云うこと。その反対ではないと云う問題提起を私たちにしていると思います。
 "教会は、信徒の組、共同体"これが教会が強く生き、迫害に耐えて行った殉教者を出すほどに強固なものになっていった大きな原因の1つだと見ています。このことは、初代教会の場合も同じで、教会が発展していくことの中では、大体同じような事が云えるのではないかと思います。
 霊の力、私たちを内から揺り動かす力が、色々なものを生み出していっていると思います。
 既存の組織が固まってくる時に、この何かが無くなっている。今の日本の教会は丁度こう云う現象の中にあるのではないでしょうか。これを揺り動かすものが要るのだとそう云う気がします。

(2008・2・3カトリック高槻教会での講話から)