主の公現ミサ説教 マタイによる福音(2:1−12)

2008年1月6日
於:桜町教会

 今日のご公現祭の祝日の意味は,第2番目に読まれましたパウロのエフェソへの書簡に端的に表現されております。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて,約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者,同じ体に属する者,同じ約束にあずかる者となるということです。」。「私たちと一緒に」と言っていますが,私たちというのはユダヤ人のことです。すなわちユダヤ人でない人々が,ユダヤ人に約束された賜物に与る,同じからだ同じ教会を作るのですよということを述べています。教会というのは,ユダヤ人とユダヤ人でない人の区別がありませんよと述べています。
 なにか事も無げにこういうことを言っていますが,当時のユダヤ人のキリスト教徒にとっては,これを受け入れるのはかなり難しいことでした。自分たちは選ばれた民族,選民意識というのが非常に強くありました。また,聖書の知識とか礼拝,典礼とか,ユダヤ人たちは全て自分たちで行ってきましたので,何か急に横から滑り込んできた新しい信者が自分たちと同じ権利を有しているというのは,なかなか受け入れがたいものでした。それはよく分かるような気がします。これは実際,初代教会の大きな問題の一つでした。例えばユダヤ人が行う割礼の式とか,あるいは汚れた肉,祭壇に捧げられた肉とか,汚れた血の清めとか,こういう儀式をユダヤ人でない人が受け入れるのはとても難しいことでした。けれども,イエス様が全ての人の救い主,又は教会によって救いがあるということは,ユダヤ人でない人も受け入れることができました。ペトロを中心として,エルサレムの公会議が開かれましたときに,汚れた食物のこととか,ユダヤ人でない人に割礼を要求しないということとかを決議いたします。でもこれが受け入れられるようになるには,相当の時間がかかります。これを受け入れるのは,非常に難しいことでした。

 ご公現祭というのはユダヤの中に生まれたイエズスという方が,ユダヤ人でない人に開かれているということを公言する祝日です。別のことばで言いますと,教会は全ての人のために開かれていますということを,宣言したことを祝っているのです。初代教会にとって,これはとても大事なことでした。ユダヤの中にとどまることのないキリスト教,開かれて諸国のために広められるキリスト教という宣言をしているのです。昨年の終わり,日本の司教団は教皇庁を定期訪問をして,教皇謁見を行いました。その折に教皇様は「日本の文化に適応できるのがキリスト教ですよ」,「日本の文化そのものを高めていくキリスト教ということを考えて下さい」ということを述べられました。少し時間がかかるかも知れませんが,キリスト教は日本の土壌の中にしっかりと,植え付けられていくものであり,普遍性,カトリック教会ということを,私たちに強く考えさせてくれてました。
 そこで,皆さんに1つの問題提起です。今日本人の信者と同じ数の外国人の信者が日本の教会にいます。そして,その人たちが日本の教会の中にどのように受け入れられていくのか,彼らを通して日本の教会が今からどのように変わっていくのか,これは難しい問題です。たぶん,今の日本教会のままで続けていくことはできません。新しいものをどのように受け入れていくのか,さらに日本の文化をどのように守っていくのか,とても大きな問題を突きつけられています。私たちはそれから逃げることはできません。この現実の前に,日本の教会はどういう路線をとっていけばいいのでしょう。と同時に,日本の社会そのものが,今グローバル化の時代にあって大きく変動しています。その中にあって,私たちはどのようなメッセージを社会に送り,あるべき教会の姿をどのように模索していくのでしょうか。

 今日の福音書の中で「ヘロデは恐れた」と言われています。「彼は不安を抱いた」とも言われています。先が見えないときに人は不安になります。イエスという幼子がどうして不安の原因になったのか私たちにはよく分かりません。多分,成長して政治的に権力を持ち,その時自分の今の身分がどう変わるのかを考えると,不安になったのでしょう。ヘロデの不安は,先が見えないことに自分の頭で考えて何とかして問題を解決しようとしたことにあります。先週読んだマリアのやり方と比較すると何かがはっきりします。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた。」と聖書は書いています。非常に対照的です。ヘロデは自分の頭だけで,不安の前に心配して対処しようとします。結果的には幼子たちを殺してしまうのです。そして,ヘロデは歴史に汚名を残しました。マリアは神のことばに信頼してじっくり考えながら,神様がして下さるだろうと思うことに頭を下げます。

 公現祭にあたりまして,2つのことを心に留めて考えてみましょう。
 1つは私たちが信じているキリスト教は,どんな文化にも適応できるということ,そして日本という社会の中に市民権を持つまで,私たちはキリスト教のあり方というのを考えないといけないということ。それから2つ目,私たちも今の社会や教会ということに不安を抱いています。でも,マリア様と同じように心に思い巡らして信頼する心というのを願うことが大切だということを教えております。

    ※司教様チェック済み