クリスマスミサ説教 ルカによる福音(2:1−14)

2007年12月24日
於:桜町教会

 今,イエスの誕生の箇所が福音の中で読まれました。福音の中では,イエスの誕生の箇所というのは,後から書き足されたものだと言われております。始めにはなかったのだということです。実際,共観福音書というのは3つありまして,マルコの福音書が一番古く,マルコにはイエスの誕生の次第というのは載っていません。マルコを土台にして,マタイとルカが福音書を書いたのですが,その2つの福音書にはイエスの誕生が載っています。非常に幸せな付け加えでして,それらはイエスの考えの基本的なものを見せてくれております。
 マタイとルカは,2つの違う観点から書いています。それでも共通している点があります。ご自分でお読みになったらお分かりだと思いますが,マタイの福音書は,イエスというお方はユダヤの先祖を持ったお方として書いています。だから冒頭にイエスの系図を出しているのです。マタイが言いたいのはこれです。イエスというお方は生粋のユダヤ人であり,ユダヤの文化に育った人であるということです。ところがルカは,ローマ皇帝の施政にあわせてイエスが誕生したと記します。当時はローマが支配していて,ローマの支配下にあるイエスの誕生ということを書いているのです。ルカはユダヤ人ではありませんので,ユダヤ人の子孫であるイエスということよりも,ローマが治めている全ての人々のために生まれたイエスということを強調して書きたかったのです。けれども両方に共通していえることは,イエスというお方はユダヤの子孫であるか,ローマ人の中にあるかは別にして,歴史の中に生まれたということを強調していることです。あるいは,イエスが歴史の中に生きたということを強調するために,誕生の場面が2つ付け加えられたと考えた方がよろしいかなと思います。

 私ごとですが,私は昨日までローマにいました。ローマにいる間に2日間を,外側からローマの町を回ることと,真ん中を縦断して回ることで費やしました。サンピエトロの広場からテーベ川に沿って,「真理の口」の聖堂を訪れ,更に左折して進むとマッシモ皇帝の競技場があります。マッシモ競技場は,有名なベンハーの撮影が行われた場所ですし,ローマの最初の殉教者が殉教した場所でもあります。マッシモの広場から左手にアウグストゥスの館が見えます。この館でアウグストゥスが普通の家庭生活を楽しみ,婦人のリディアとどんな話をしながら生活していたかなどということを考えました。そのころイエスはユダヤの片隅で生まれていたのです。歴史は多方面から見ると,1人の人がどんな状況の中に生まれて生きるかが見えてきます。
 イエスが生まれた時代はどういう時代だったのでしょう。ローマ帝国という大帝国に飲み込まれたそんな時代だと言っても良いでしょう。その中にあってユダヤは,自分たちの国,自分たちの文化,自分たちの独自性というのを保とうとしました。それは必死の闘いでした。易しい闘いではなかったと思います。ユダヤ人は自分たちの国を,非常に強く意識していました。ところが支配した国ローマは,世界に自分の国の版図を広めていくことに全力を投じていました。それに従わない場合には武力でもって占領していいきました。イエス様が生まれた時代は戦いの時代でした。ユダヤ人たちはローマのその版図の中に飲み込まれることなく,いかに自分たちの文化を守り抜くかを考えていました。現代でしたら,アメリカの文化が日本に奔流のように流れ込んできて,日本独自の文化を侵してしまうと心配しているような時代です。何とか日本の文化を守らないといけないと感じているのです。すこしニュアンスが違うとしても,こんな感じの時代にイエス様は生まれております。だからルカの福音書はローマ帝国の版図の中にイエスは生まれて育った,その中に生きたということを表して書いているのです。
 それと平行しまして,当時誕生したばかりのイエスの教会は,ローマ版図の中に成立してユダヤの文化圏を乗り越えていこうと努めていました。教会はユダヤの文化の中にだけ閉じこもることができないと,強調して書いたのがルカの福音書だったのです。ところが,マタイはユダヤの文化を守らないといけないということを,強く意識していました。ユダヤの文化を守り,ユダヤ人として生まれて生きたイエスというお方を強調したのです。
 キリスト教はユダヤの文化の中に生まれました。ユダヤの文化を継承して,それを発展させて,新しいキリスト教が生まれました。ユダヤ教を土台としてローマの文化,ギリシャの文化,そして色々な文化に浸透していって,キリスト教は世界に発展していきました。もしもユダヤという文化だけに限られましたら,キリスト教は世界の隅々まで発展していくことはできませんでした。しかし,キリスト教を分かるためにはユダヤの独自の文化というのをしっかり理解しないと,キリスト教は分かりません。マタイとルカの2つを良く見極めないと,キリスト教は分からないと言ってもよいでしょう。この両者が相まって,キリスト教は世界に伸びていった世界宗教となります。この間のことを踏まえる時に,マタイとルカが後から付け加えられた意味が分かるわけです。マルコの福音書だけだったら分からない部分を,マタイとルカは付け加えて,教会とは何かということを明確にしたのです。

 少し難しい話を致しました。今日はキリストの誕生を祝っております。キリスト教というのは世界的な宗教です。しかし,独自の文化にしっかりと根ざしている宗教であることを,私たちは分かっています。私たちは日本というこの土壌の中にあって,この土壌の中にどのようにキリスト教がしっかりと溶け込んでいけるかを考えることが大切です。どういう風にすれば日本の中にキリスト教は浸透できるか,この努力を怠ってはいけないということを,今日の福音書は考えさせてくれています。
 今日のごミサの中で,自分の家族の一人ひとりのために特にお祈りを続けるように致しましょう。

    ※司教様チェック済み