三本松ルルド祭ミサ説教
2007年5月20日
於:三本松教会
本日は、キリシタンの時代、今から300年前に日本で働いた最初の宣教師たちが、どんなに苦労してキリスト教的な言葉、教会の言葉を日本語に翻訳したかということを考えてみましょう。
聖書を読んでいきますと「人の子」という表現があります。イエス様は「神の子」というよりも、自分を「人の子」と呼んでおります。イエス様は「神の子」であって「人の子」、そして「救い主」なのです。ですから「神の子、救い主」ということばを使うことができますが、あえてイエス様は「人の子、救い主」という言葉を選んでおります。その意味は、神様の子供として上から下ってきて上から教えていくという、こういう見方をしなかったということです。イエス様は「人の子」として生まれて、人々の間で一緒に生活して、人々のために自分の命を捧げていった、こういう「救い主、神の子」なのだと、これを言い表したかったので「人の子」という表現を使っております。
では、キリシタン時代、この「人の子」という聖書の言葉をどういう風に翻訳したのでしょう。それはとても難しかったようです。1596年に「コンテンムツス・ムンジ」という本が出版されています。現代でも「キリストに倣いて」という題名で知られています。その翻訳はローマ字本で、印刷されています。その1596年の活字本では、「人の子」というのを、そのまま「人の子」と訳したのです。あるいは「御主(みあるじ)」と「主」と訳しました。ところが、それから10年経って1610年には日本語活字版が出されました。漢字で書かれた同じ「コンテンムツス・ムンジ」でして、そこでは「人の子」と訳さないで「ビルジェンの子」と訳したのです。スペイン語では「ビルヘン」ですが、ポルトガル語では「ビルジェン」といいます。普通は国字本で出版する時には、なるべく外国語を使わないという原則がありました。日本語で良く表現できないときに外国語を使うと決めていたからです。この場合不思議なことに、日本語の「人の子」でわかることができたのに、あえてポルトガル語の「ビルジェン」という言葉を使ったということです。300年前の神父さんたちは、どうして日本語の「人の子」というのを「ビルジェンの子」と訳したのかという問題が残っています。
すなわち、「人の子」という訳ではだめだと考えたからです。「人の子」という訳では意味が良く通じない、だから「ビルジェンの子」にしようと考えたと言っても良いでしょう。「人の子」というと神様のイメージが出てこないというのが、まず最初の理由だったと思います。それから、「人の子」と言う場合に、女から生まれてくる子供というのでは、他の人と全く変わらないと思ったのです。ましてや、十字架に付けられて死ぬとしたら他の人の子よりももっと惨めで悲しいのではないかと、すなわち「人の子」という言葉を使うときに神様のイメージがなかなか湧かない。今でも同じだと思いますが、そういう風に考えて、別な言葉を探してみようといたしました。さらに聖書の中で「人の子」というのは、栄光の姿で雲に乗って最後の日にやってくるということが言われております。すなわち、「人の子」には女から生まれ、そして人々のために十字架に付けられて死ぬ、しかし、栄光の内に将来やって来る神の子だというぐらいのイメージを表す単語を見つけていかないといけないと考えたのです。それで、「人の子」という表現を使うと、どうも薄っぺらでつまらなく、日本人たちはこの言葉でキリスト教を馬鹿にするのではないかと考えました。それなら、マリアから生まれた子という表現が使われるのが、一番良いと考えたのです。ところが、「マリアの子」とも言わなかったのです。なぜでしょう。当時宣教師たちの書いた手紙を読みますと、「日本の女性たちは貞操観念がない。結婚前に子供を孕んでいる例が多すぎる」ということがあり、女という表現を使うときにあまり良い印象を与えない。女から生まれてくると言ったら、すこしみだらな感じを与えるということで、女ということばを使いたくなかったのです。また、マリアというと、マリアという一人の女性に限られてしまうので、マリア様だけの子供という意味になる。こう考えて、ポルトガル語のビルジェン、乙女という表現を使って、「ビルジェンの子」と訳したという過程があります。
すなわち、「人の子」なら単なる人間にすぎないですし、「神の子」なら神の子に過ぎない。人の子であり、人と一緒に生活し、女から生まれ、神様の子であり、救い主である。これを全部総合して「ビルジェンの子」という言葉に代えたのです。
ところが宣教師たちは、日本人はこれを分からないだろうと考えていました。女から一人の救い主が生まれるなどと、日本人には想像がつかない。ましてや、その救い主が十字架に付けられて死んで、むち打たれて、そんなことも考えられない。神の子として栄光の中にやって来る、これを考えられないと、こんな風に考えていたのです。だから、これは神秘だと教えていました。山口市で殉教する盲目のダミアンという人がいますが、ダミアンは死ぬ前にこういうことを言っています。「ビルジェンの子キリストの誕生に潜む秘密を、あなたがたはどうしても分からないでしょうね」。すなわち、信者でない人たちに向かって、「女から生まれたイエズスというお方が神の子なのだということを信じるのは難しいでしょうね」ということを言っております。ルイス・フロイスという神父がいますが、フロイス神父は「女から生まれて、十字架に付けられて死ぬイエズスという姿を、当時の信者たちもなかなか分かりませんでした」と言っております。現代も全く同じだろうと思います。私たちが信じているイエス様は女から生まれた、マリアから生まれて人と一緒に生活して、人々のために十字架に付けられて死んだ、しかしそのお方はいつか栄光を帯びてやってくる。イエス様は十字架の上から、マリア様を私たち人間に渡して「これがあなたがたのお母さんですよ」と言う。こういうことを信じるのは、なかなか難しいのではないでしょうか。私たちは、今日マリア様のお祝いをしていますが、どんなマリア様を考えているでしょう。だから、「ビルジェンの子」という言葉の中には、なかなか分からない神秘という響きがあります。
もうひとつです。では、どうして「マリアの子」と言わずに、「ビルジェンの子」という言葉に執着したのでしょうか。ビルジェンというのはポルトガル語で、乙女のことです。結婚していない女性のことを指しております。女性の優しさを響かせている言葉です。「マリアの子」と言うとマリア様だけに限られていますが、「ビルジェンの子」と言ったら、マリアに代表される女性たち全部を指している。だから、「ビルジェンの子」ということばで、マリア様にならっている女性たちへの賛美があるということです。戦国時代の女性たちに向かって、教会は「あなたがたはマリア様と同じ役割を担った、神の救いに協力している方たちなのですよ」ということを言っているのです。女性を通してこの世の救いが全うされていく、こんな意味を出しております。だから、「ビルジェンの子」というのは、当時の女性へのエールなのです。教会がエールを送っているのです。「あなた方は自信を持って女性の性を生きるということが大事なのですよ」ということです。
今日はマリア祭を行っております。このマリアから生まれた人の子イエズスは聖霊によって宿り、神の子として人々に使わされます。マリア様とつながってイエス様がいます。ラテン語で「ペル マリアム アド イエズム "per
Mariam ad Jesum."」と言います。マリアを通してイエズスへと、変わらない真理だと思います。
カトリック教会は、マリア様をとても大事にしました。そして、今も大事にしております。カトリック教会からマリア様を取り去ってしまったら、教会がないと言っても良いと思います。また、マリア様を通して世の女性へとつながっております。母親のイメージがあったり、美しさの代表としての女性への賛歌もここに含まれております。
最後です。ここにおられる女性である皆さん、どうぞマリア様の女性性につながる人として魅力のある女性としての生き方を全うして下さいますように。ここにおられる男性の皆さん、マリア様とともに救いを成就したイエス様の生き方にならって、女性とともに私たちの社会を、女性への深い尊敬と愛に生きて、私たちの教会をつくることを誓うようにして下さい。こういうことを通しながら、私たちが生きている世界が新しい世界に生まれ変わっていきます。
※司教様チェック済み