キリスト教一致祈祷週間
2007年1月18日
於:桜町教会
今読まれました朗読の箇所は,ことばということを表していますので,本日皆さんと一緒にことばの意味について考えてみたいと願っております。プロテスタントの教会の方々はことばの大切さを良く理解されておられますし,それを大事にして伝統によって培われた教会づくりに励んでおられるのは,私たちは良く知っております。恥ずかしいことに,カトリック教会は秘跡に重点を置いたことで,ことばをその次にしたという経緯があります。しかし,遅まきながら第二バチカン公会議前からこのことについて大きな目覚めがあり,エキュメニカルな運動とあいまって,カトリック教会の中にもことばの重要性をしっかりと認識しようという動きが非常に強くなっております。カトリックの一人として,非常にうれしく思っているところです。それでもまだまだカトリック教会は,プロテスタントの教会から,この点についてしっかりと学ぶ必要があると,私は常々思っております。
さて,ことばは創造であると創世の記が最初に述べております。混沌たる世界の上にことばがあって,そのことばが形を作って息吹を与えていきます。ものごとを作り出すことばの威力を,私たちは今日しっかりと黙想しないといけません。感動することばは,ものを作り出していきます。イエスというお方は,ことばを与え続けるお方です。イエスのことばは,人を生き返らせます。私たちキリスト者は,イエスのことばを信じたら,私たちのことばを通して人々を生き返らせないといけません。残念なことに,私たちはことばを通して人に息吹を与えることをできないほど弱々しく,そして貧弱なことばしか持っていない。これが私たち信仰者の現状だとしましたら,非常に物足りないのではないかと思います。私たちキリスト者の務めというのは,現代を生きる人にことばを与え続けるということです。決まり切った陳腐なことばではなくて,その人に生きる力を与えること,これを私たちは洗礼によって上から授かっております。何気ない毎日の生活の中で,私たちは神のことばによって生かされております。その生かされたことばによって,私たちは共に生きている人々に息吹を与えることができます。息吹を与えることができないとしたら,私たちは神のことばを理解していないということになります。神のことばに私たちは参与して,世界は新しくなります。
洗礼によって,私たちはキリストの祭司職に与るということを教えられております。キリストと共に人々のために,私たちはいけにえを捧げます。人々の願いを神様に持っていきます。私たちは司祭なのです。持っていったお願いのその答えを,私たちは人々にもたらします。どのような形で?ことばを通してです。生きることばを通して神に近づけば,私たちの心は感動で一杯になります。一杯になったその感動を伝えいくという生き方が,私たちに求められております。
最初に言いました,現代社会というのは混沌たる状況です。秩序がない,確たる価値観がない。世界は,たゆとう舟のように,見えない未来に向かってこぎ出しております。どこに行ったらいいのでしょう。何をすればいいのでしょう。誰が舵取りをして,誰がこの世界に生きる力,生きる方向性を与えていくのでしょう。見えない混沌たる世界だからこそ,神のことばに生かされた私たちが声を上げる必要があります。私たちは預言職というのを持っております。現代社会に向かって声を上げないといけない。黙っていて良いのではない。私たちは,洗礼によってこの預言的な賜物というのを頂いております。
今生きている現代社会は,このままで良いのでしょうか。私たちはこの胸の奥に一つの疑惑あるいは一つの苦悩,こんなものを抱かないではおられないのではないでしょうか。希望を持って迎えた21世紀,十数年も経たない間に,平和が与えられることは決して平坦な道ではないということを,私たちは身でもって体験しております。終わりのない戦争,先の見えない信仰,走っても走っても絶えることのない倫理観の欠如。これらすべての前に,私たちは上からのことばによって生かされて,この現代社会のこの問題に立ち向かっていかないといけないというメッセージを受け取ることができます。
ここまで考えますと,もはやキリスト教会の諸派で争っている場面でないということはよくおわかりだと思います。もうそんなことをしている暇はない。ましてや教団内部での争いに終始している場合ではありません。現代社会という魔物に向かって,ことばという武器を振りかざして,私たちは協力して現代社会に立ち向かって行かないといけません。私たちのこのエキュメニカルな運動も,単にキリスト教会の一致に向けてというより,現代社会への挑戦ということに手を取り合ってと,こんな風な表現に変えていった方がいいかも知れません。
福音的な価値観でない人生観が充満している現代社会に向かって,神のことばを告げる,福音は何であるか,人間として生きるためには何がいるか,何が一番大事なのか,こういうことばを声を上げて現代社会に向かって話さなければいけません。それは単に私たちがことばによってうっとりとしている状況ではありません。教会の中できれいな話を聞くことでもない。単に聖書の注釈をすることでもない。勉強することでもない。学識をひらめかすことでもない。私たちはキリストのことばを信じて,現代社会に向かって立ち向かう,こういう課題を突きつけられているということが教えられております。
心の奥底,魂の底を揺さぶることばを,私たちは持つ必要があります。そのことばを持つことで,現代社会に揺さぶりを与え続けることができます。ここに何人いるでしょう。30人,40人,私たちに魂を揺さぶるということばがあったら,現代社会を揺さぶることができる。教会の片隅で小さく小さく自分の信仰を守っていくことが,信仰ではない。私たちは,現代社会ということに目を向けた自分の生き方を追求する,これが信仰であるということを,今日教えております。この意味で私たち宗教者というのは,今立ち上がらないといけません。生ぬるい宗教家ではいけない。黙示録が言いますように,「あなたは生ぬるいから口から吐き出そうと,冷たくも熱くもないからだ。」。
ただ宗教家であるという名前だけの宗教,これは何の役にも立たないし,何の意味も持っておりません。惰性に流されて表面的なことばの解釈に終始している。こういう生き方を変えないといけません。ことばは私たちの魂を,体を切り裂いていく,とパウロは述べています。全くそうだと思います。私たちが聖書のことば,みことばに触れるときに自分の魂を突き破り,引き裂き,切り裂いていく,こんな体験をしていかないといけません。それを通してことばの意味が自分のものとなり,血となり,肉となって,すなわち受肉させて,新しい力を生み出す原動力を作り出すことができます。
現代は多くの問題を抱えております。それを除外したことばの勉強のようなものが大切なのではありません。現代社会を生き抜く力,知恵を与え続ける,ことばを良く知っている宗教家となる,こんな必要を今日のヨハネの福音書は私たちに突きつけています。エキュメニカルの今日のお祈りの中で,私たちはもう一度手を合わせ力を合わせて,私たちが生きているこの四国の社会の中に,宗教家としてどのように立ち向かっていけるか,どのようにことばを伝えていけるか真剣に考えてみたいと念じる次第です。
※司教様チェック済み