主の公現ミサ説教 エフェソ(3:2b,5−6)
2007年1月7日
於:桜町教会
本日は,聖パウロがエフェソに宛てた手紙の一文を読むことから始めます。「異邦人が福音によって,キリスト・イエスにおいて,約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者,同じ体に属する者,同じ約束にあずかる者となる」。すなわち,イエス・キリストを信じることで,ユダヤ人も異邦人も同等の資格が与えられているということを言っています。ということは,もはやユダヤ人の特権ではないんだよということを伝えております。爆弾宣言のようなものでした。
ユダヤ人達が,自分たちこそ選民である,特別な地位と将来を約束されていると信じていたことが,今このことばによって根こそぎひっくり返されております。ユダヤ人達が怒った理由も,私たちはよく分かることができます。新米の異邦人に何が分かるかという,こんな気持ちがあったでしょう。実際,初代教会では一番大きな問題は,ユダヤ人だけが特権をもっているのではなく,異邦人を含めてみんなが平等であるという考え方にありました。自分たちこそ選ばれた民という意識が強くありすぎて,世界に開かれた宗教という理解がなかなかできなかったのがユダヤ人キリスト教徒でした。この殻を破ったときに,カトリック教会は初めて世界に広がっていきました。そうでなければ,必ず,ユダヤという社会にとどまっていたでしょう。同じような体験を,現代に至るまでカトリック教会はいたしました。カトリック教会こそ優れていると思うあまり,他の宗教や他のキリスト教を見下す態度が多々ありました。第2バチカン公会議は,パウロから2000年を経てから教会のあり方を宣言しました。すなわち,過度に自分たちだけが優れているという見方を改めなさいよということです。こういうことを踏まえてカトリック教会は,宣教ということを,諸宗教との対話あるいは現代社会との対話という形で表明しております。宣教とは何でしょう。人々が持っている価値基準というのが,福音のそれによって変えられるということを意味しております。そのためには,基本的に対話が必要であるということを強調しております。人の価値基準が変わるためには,強引に洗脳的に押しつけていってもその人が変わるものではありません。対話を通して,時間を掛けてゆっくりと納得していく方法を採らないといけません。日本では洗礼が少ない,寂しいという評をよく聞きますが,私はそう思いません。ゆっくりと納得して洗礼を受けていく,こういう人が絶えないというのを見ております。良い方法を採っていると思います。ただ,教会全体が本当に納得して生きているかが問われます。自分が納得していなくて,決して人が納得することはない。これは確かです。だから数が少ないというより,少ない数の人が,納得した成熟した信仰で目覚めることの方が大切であると,私は信じて疑いません。
それでは,納得した成熟した信仰の人というのは,どういう方法を採ってやっていくのでしょう。バチカン公会議が伝えるように,それは対話でしかありません。今私は「諸宗教との対話」で示されている4つの基準をお話しして,一つのヒントとしていただきたいと願います。
同文書がまず一番目に言っていますのは,「生活の対話」ということです。隣人と開かれた心で対話をするということ。自分が一緒に生活している人々と対話ができないというのでは,宣教はできません。宗教対話などというのも決して成り立ちません。自分が一緒に生活している人とどのように生きるか,これが宣教で一番大事なことなのです。
2つ目は「行動の対話」あるいは「実践の対話」といっております。私たちだけが,善意を持ってより良い社会を造ろうとしているのではありません。それは思い上がりだと思います。私たちの周りでは,私たち以上に,より良い社会を築くために働いている多くの人がいます。多くのボランティア活動をしている人たちがいます。その人達と一緒に歩めばいい。教会内部だけで何かの善をしようと考えないこと,これが第二だと言っております。その意味で社会問題に目覚めない人は宣教はできません。
3つ目です。難しい言葉で言っていますが,「諸宗教の対話」では「神学の対話」という表現を使っております。別に,学者のみが行う対話で宣教が行われると,そんなことではありません。カトリックの司教と仏教のお坊さんが対話したら宣教ができるという意味ではありません。基本的にすべての人に恵みがあること,すべての人の上に神様の救いがあること,キリスト教は各国の文化や宗教の中に深く入ってその文化そのものも変えていく力があること。神の計画があって行動すること。従って,その国の人,その国の文化,その国の宗教,これを基本的に大切にすること,こんな事を言っております。ひいては,相手が置かれた状況を知って,それに対応できる能力のことを指しております。宣教というのは,相手の必要に応える,こういう姿勢を表しております。
第4点です。「宗教体験の分かち合いの対話」という表現を使います。私たちは宗教の世界に生きております。祈りを知っている人であること。祈りを知らないで宣教は絶対にできないということが言えます。本当に深く祈る人は,諸宗教やあるいは社会に生きている人々を深く理解することができます。相手の状況を深く理解することができます。従って,相手の要求に応えていくということを知っているのです。
こうして考えますと,対話ができるためには,平衡感覚とそれから超自然の感覚,この2つが求められて参ります。バランスがとれていないといけない。しっかりと祈る姿勢がいる。祈る姿勢があるということは,とても謙虚であるということ,威張らないということ,押しつけないということ,しかし,相手の前に毅然として立っているということ,こんなことを指しております。
私たちは,四国という土地にいます。仏教の伝統の非常に強い,長い伝統に培われた土壌の中に生きています。私たちはこの土壌の中に根を下ろすためには,どうしてもこの土壌をよく知らないといけません。それが宣教というものです。自分のものを持っていくのではなくて,そこにあるものの中に何があるのか,これをよく分かることから始めないといけません。私たちの宗教がこの四国に根を下ろすためには,あるいは市民権を得るためには,ここに生きている人々とどのように協力して働いていけるかをしっかりと考える必要があります。
こう考えますと,対話というのは宣教と深く関わっています。口説いて説得して洗礼を授けるというより,人々と交わって,私たちが信じている福音的な価値観が文句なしに相手に入っていく,こういう生き方が問われている,こんな風に考えてもいいでしょう。
※司教様チェック済み