王であるキリストミサ説教 黙示録(1:5−8)

2006年11月26日
  於:桜町教会

  今日は第2の朗読で読まれました黙示録の箇所、その冒頭の部だけをご一緒に読みながら解説を加えたいと思います。よろしければ開いてみてください。

 最初にこういう風に言われます。「証人であり誠実な方,死者の中から最初に復活した方,地上の王たちの支配者イエス・キリストから恵みと平和があなた方にあるように」。これは何でしょう。ミサの最初に「主は皆さんとともに」という挨拶をしました。昔の教会の挨拶です。イエス・キリストからの恵みと平和がありますようにという挨拶になっております。しばらくこの挨拶の言葉を考えてみましょう。私たちはあまり考えないで「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」と言っていますが,そこには意味があるということです。皆さん,どういう風にお考えになりますか。

 まず最初に「証人であり誠実な方」という表現を使われております。イエス・キリストというお方は神の証し人です。あの方は忠実に神様の思いを果たしてくださいましたということを,最初に言っているのです。私たちはイエス・キリストというお方をみたら神様が分かる,神様の思いが分かる。だから最初にイエス・キリストをみれば神様が分かるんですよと、こんな挨拶をまず送っています。彼は誠実な方であり、約束通り父なる神様の命令通り人のために命を捧げたのです。「友のために命を捨てるほどの大きな愛はない」ということをイエス様は実践されました。誠実に神の思いを実現してくださったお方、この方はイエス・キリストです。今,神の愛を証しするために,イエス・キリストが「私をみてご覧。私をみると神様の愛が分かりますよ」、「私をみてご覧。十字架につけられたその私から神様の思いが伝わりますよ」と伝えているのです。
 次に「死者のうちから最初に復活した方」ということが言われています。十字架の死を経て最初に復活したお方イエス・キリスト。死んだのではなく、死んで復活した主、その主があなたに挨拶します。喜び一杯に、今日のこの日曜日を、皆と一緒に過ごしなさいと挨拶は続きます。あるいは「よくいらっしゃいました。一緒に復活の喜びをお祝いしましょう。」と。
 さらに「地上の王たちの支配者」と続きます。どんな王様よりも偉大な王である主イエス!彼はどんな偉大な王様でしょう。「恵みと平和を与え」続ける王様です。だから、キリストの恵みと平和があなた方にありますようにという呼びかけ文になります。

 だから,「主は皆さんとともに」という言葉の中に,「従順に神様の思いに従って生きて死んだ,そして復活した主イエス・キリストからあなたに挨拶を送ります。恵みと平和がいっぱいありますように。」というのが最初の挨拶の言葉になります。では,これを受けて私たちはなんと答えるのでしょう。「また司祭とともに」と私たちは言います。これは実際はあまり意味がないようです。昔は別のことばを使っていました。「私たちを愛し,ご自分の血によって罪から解放してくださった方に,私たちを王としご自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に,栄光と力が代々限りなくありますようにアーメン。」。現代の日本語では「また司祭とともに」となっていますが,ラテン語の原文では「あなたの霊とともに」となっております。「エト・クム・スピリト・トゥオ」と「スピリト」と言う表現が使われています。この「霊とともに」は,日本語の訳には全くありません。最後に,力強く「私たちを愛しご自分の死によって罪から解放してくださった主に栄光と力が限りなくありますように」としめます。
 イエス様の生き方というのは,私たちのために命をかけて愛されていることです。私たちに悲しみが多く、自分ではどう解決していいのか分からないいろいろな問題,複雑に絡んだしがらみ,こんなものにがんじがらめに縛りつけられています。その私たちを、ご自分の血によって,ご自分を十字架にかけることによって,このしがらみから救ってくださるのです。だから、ありがとうと答えます。あなたこそ私をこのしがらみから救ってくださるお方なのですね。あなたはこの私に命をかけてくださった。ありがとう。なんて惨めな悲しい私を救い出すために命を投げ出してくださる主イエス。とってもありがたい。

 さらにこういう風に続きます。「私たちを王とし,ご自身の父である神の祭司としてくださった。」。だから,ありがとうという意味は,私を救ってくださったということに対してだけのありがとうではないのです。私たちを王とし,祭司としてくださった。このことのために、ありがとうというのです。私たちは洗礼によって祭司,司祭の仕事を果たします。司祭の仕事とは何でしょう。この惨めな悲しい人々の願い,祈り,叫び,これを自分に受け止めて,それを神様に伝えていくことです。ミサに与るためにここのお聖堂に入ってきた人は,司祭として人々の悲しみをここにもってこないといけないのです。お聖堂にはいるときに,私は何のために今日のミサに与るのかはっきり知らないといけません。この人のために捧げるという意向をはっきりもって入って来ることです。このとき、あなたは司祭なのです。更にこのミサの中で受けた恵みを人々に伝えていくのです。だから司祭なのです。「王としてくださった。」。イエス・キリスト様は王様,恵みと平和を与え続ける,暖かな優しい,時には厳しい福音のメッセージを与え続けている王様。私たちはだてにミサに与っているのではありません。「行きましょう。主の平和のうちに。」のことばで聖堂を出るときに,私たちが受けたその恵みを人々に伝えていく決意をもたなければいけません。たくさんの恵みを私たちはこのミサの中でいただきます。だからこそ,人々の悲しみに気づいて,彼らの願いを神様にもっていく役割,これが祭司であり、これが王様です。私たちはイエス様に対して,私たちを洗礼によってこのようなすばらしい役割にお召しになってくださった主よ,感謝いたします。あなたに代々限りなく感謝と賛美がありますようにと答えるのです。

 今日は黙示録の最初だけを解説しました。その次の箇所も解説すればおもしろいのですが,時間がありませんのでこのぐらいで終わります。あなたのために死んで復活された主が今あなたに挨拶します。「こんにちはよくいらっしゃいました。がんばりなさいね。失望したらいけないよ。いやそれでいいんだよ。」こういう挨拶を送っています。これに対して私たちは,「こんなにまでして,私たちのことを考え,私たちを愛してくださった。どんなに感謝しても限りがありません。主はあなたとともに,またあなたとともに」という言葉になります。

    ※司教様チェック済み