年間第31主日 香川地区教区民のつどいミサ説教 マルコ(12:28b−34)
2006年11月5日
於:桜町教会
今日の福音書の中で,あらゆる掟の中でどれが一番大事かという質問がされております。イエス様は,「心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして,あなたの神である主を愛しなさい」と答えております。私たちキリスト教は唯一の神を信じております。八百万の神を信じているわけではありません。唯一の神というのは別の難しい言葉を使いますと,人格神というふうに言うことができます。すなわち,考えたり,愛したり,自由意志を持って受け入れることができる存在,これが人格神です。だから,神様の似姿である人間も,この神様がもつ特徴を持っております。すなわち,考える力,愛する力,自由意志を持って決めていく力,これらを持っています。これらを持った存在を私たちは人格と呼んでおります。人格と人格が出会って,お互いを愛し,理解し,自ら決定する,こういう能力のあるつきあいをいたします。私たちの神様も同じです。人格神ですので,愛したり,ものを言ったり,一緒に考えたりする事ができる相手です。だから私たちは祈りの中で神様と対話をします,話します,愛します,自分の考えを披露します。
「心を尽くして愛しなさい」と言われています。まず,愛しなさいということです。愛する人というのは,相手をよく理解することができます。愛する人は学問をするようになります。物事が好きである人は,その物事を探求してその物事を自分のものにします。だから,「まず愛しなさい」というのは,アウグスチヌスの考え方でもあります。真理を求めたければ,勉強ができるようになりたければ,愛しなさいと言っているのです。愛さないで勉強だけする人は評論家的に種々批判をすることができますが,決して相手の人とふれ合ってことを分かち合うということはできません。愛さない人は,対話ができません。だから,「思いを尽くして」という表現をイエス様は使います。愛する人は「思いを尽くして」相手を理解し,それによって相手と出会います。私たちは,まず神様を愛するということから始めたら神様がわかります。神様が見えます。神様と話ができるようになります。愛するということから始めないといけないのです。
更に,「精神を尽くして,力を尽くして」と続きます。全身全霊をもって相手に向き合いなさいという意味です。神様を愛するということに,全部をかけていく生き方をしてご覧なさいよとも言っておられます。400年前,加賀山隼人という侍がいました。小倉で主君の細川忠興に仕えておりました。彼は,高山右近という人の家臣で右近の影響で信者になりました。迫害が起こったとき,主人の細川忠興は「心の中だけで信仰を持っていればいいじゃないか,外に表さなければいいじゃないか」と彼を説得します。でも加賀山隼人は「私は心の中で信じて,それを公言しないなどということはできない」と答えて,1619年殉教します。彼の娘にみやという人がいるのですが,みやの夫は小笠原玄也という人で,細川忠興の正室である細川ガラシャ婦人が大阪で自害を迫られた時,自分はキリスト信者なので自殺ができないと伝えました。こうして,彼女の胸を突いて殺した家臣が小笠原少斎でして,彼の三男坊小笠原玄也が加賀山隼人の娘を嫁にもらっていました。小笠原玄也に,細川忠興は「あなたも信仰は心の中だけで持っていればいいじゃないか,外に表さないで一応形だけ転んだと言いなさい。」としきりにすすめます。小笠原玄也はその時「忠興様,何と仰せ出だされ候とも,転び申さず候」と答えました。「私の主君である忠興様,あなたがなんと言っても,私はそれだけはできない」との意味です。こうして禄をはがれ,一家15人,9人の子供と一緒に1634年に殉教していくことになります。心で信じていることを表向きだけごまかすことはできないと考えていたのです。全身全霊をかけて神様に向かわないといけないと心から信じていました。
さて現代,一神教が世界の平和を乱しているということがよく言われます。日本でもそのことが新聞をにぎわしております。ユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教とか,一神教があるところは今戦争が起きている。多神教であるアジアなどはこういう争いをしないのだと,こんなことが言われています。本当でしょうか。現代は何でもいいとすべてを許す時代です。どんな基準も認めない,これもいい,あれもいいと,こういう相対的な時代にあって,私たちキリスト教は一神教を信じております。すなわち妥協を許さない生き方というのを私たちに要求しております。ときどきそれは,私たちに大きな疑問を投げかけております。
私がこの四国に来て感じますことは,四国の土地に仏教がどれだけ大きく深くしみこんでいるかということです。先日仏教の人たちが見えまして,キリスト教も含めて,今後宗教者としてできることを一緒に考えようという話をもって来ました。できればカトリックの人が中心になってやってくれないかと,この話も来ております。キリシタン時代,キリスト教は日本の伝統的な宗教,仏教とか神道を馬鹿にして,自分たちの教えを絶対とするという考えがありました。そんなことが契機で,キリスト教禁止という結果になってしまいました。当時も今も変わらない問題が私たちにはあります。私たちが譲ってはいけないものと,そして一緒にやっていかなくてはいけないもの,これをよくわからないといけません。そのためには何がいるのでしょう。私たちは,個人としては,一神教,すなわち「神様を何よりも愛すること」これが大事です。と同時に他の宗教をどのように受け入れ,どのように彼らと一緒にやっていけるか,これを考えることが必要となって参ります。他宗教との関係を見極める上で,まず自分たちの教えというのをしっかりと理解しないといけません。それよりも自分たちがつくっている教会というのを何よりも愛する,その中で本当に深くキリストの愛に目覚めた,愛に生きる共同体というのをつくらないといけません。それを承知の上で,なおほかの宗教との関わりの中で,ほかの宗教が何を求め,何を教えているのかもしっかりと理解する必要があるのではないかと思われてなりません。
現代は共生の時代と言われております。教会の中で,いろいろな価値観がいろいろな形で生まれてきております。現代社会の中にも生まれております。どのようにいろいろなものを受け入れていくか,どのように自分のものを保っていくか,それが私たちに課せられた大きな課題なのです。
※司教様チェック済み