「高知地区教区民のつどい」溝部脩司教様基調講話後の質疑応答

2006年10月29日
  於:江ノ口教会


Q1 
 私は障害者の一人です。弱者的で弱く、弱者の立場に立つことが多いです。教会に行っても、私のそばに座ってくれません。嫌われている、とまで思わなくても、嫌な思いをして帰っていく信者が居ることを、心に留めて置いて下さい。有難う御座いました。

Q2
 私も障害者です。私も精神的に弱い面がありまして、精神的に具合の良いとき、悪いときがあり、ごミサに与れない時があります。私が洗礼を受けたときには、ごミサに与れなかったら、"次のごミサの前に、ゆるしの秘跡を受けてください"と教えられました。私自身よく分からないのですが、現実問題、ごミサの前は、神父さんはお忙しくて、"ゆるしの秘跡"を受けられないですし、不明な点があります。

司教様
 今日、高知では、ミサについての話をしていません。香川、徳島、愛媛では「教区民のつどい」に、「聖体」についての話をいたします。この高知だけ別の話を致しました。ミサも赦しなのです。"ゆるし"というのは色々あります。"ゆるしの秘跡"だけが"ゆるし"ではありません。勿論、"ゆるしの秘跡"は、"ゆるし"の最たるものであります。ミサに与る前に、本当に"罪を赦してください"という気持ちを持つことです。ご自分を捧げることによって、私たちの罪が赦されるのです。そのように考えたらよいのではないでしょうか。神父さんにどうしても話したい時は、ミサの前でなくても、ゆっくり話しながら、最後に「赦し」をいただけばよいのではないでしょうか。どうしても、"ゆるしの秘跡"を受けなければと、こだわり続けないで、自由に考えればよいのではないでしょうか。

Q3
 今日のテーマである「一致」についてです。「一致」と言われますと、頭の中では感情的に処理しよう、感情的に受け入れようとする傾向があります。9月、愛媛地区の"教区民のつどい"のミサの中で、司教様は申されました。「兄弟、姉妹と一緒に与るミサを通して教会の刷新が生まれ、一致が生まれ、新しい救いが始まる」と。私たちに、このことを、噛み砕いてご説明ください。

司教様
 今、司祭評議会では、「聖体の年の教書」の第二部を扱っています。今までに4回話し合いました。基本は主日のミサです。主日のメインのミサを、皆が大事にする、それに生き生きと与る、ということが大切です。そのためには何をするのか、どうすればよいのかです。典礼委員会も必要でしょう。どうするかということを、真剣に考えて欲しいと思います。ミサこそ一致のしるしだからです。共同体のミサ、これは一致のしるしです。小教区でのメインのミサを、皆が大切にする、ここから本当の意味の一致が始まる、という見方をしております。まだ最終の段階にきていませんが、来週の火曜日(11/7)に、司祭評議会でもう一回話される予定になっております。そこでグループのミサというものを考えています。例えば、月一回子供のためのミサとか、外国人のための英語のミサも毎週でなく、月に一度日本人と一緒に、皆と一緒にミサに与るのはどうでしょうか。そして、"子供も大人も、一緒に与るようにしませんか"と話しているのです。このように、グループのミサというものを、もう一度考えていただきたい。
 同じように、「新求道共同体の道」の方々にも同じことを言っているのです。何が何でも自分たちのミサというのではなく、"小教区のミサを大切にすることを考えることが、一番いいのですよ"という教書を作っています。しかし、たくさんの議論があって、今のところ未だ纏っていません。小教区のメインのミサを、如何に活性化するか、それが一番重要な課題です。そこに皆の心が結集すれば、必ず一致が生まれます。主日のミサしか、本当の一致のしるしは無いと思います。全ての教会活動を、そこに結集することが、大事だと思います。

Q4
 先程からのお話で、若者に対する考えが出ておりません。今日、司会をしているBr.八木が、今回青少年の指導者として、新しく誕生したと聞いておりますが、そうした人たちを中心にして、もう少し活発な運動を広げていただきたいと思います。昔は"ミサ応え"ということがあり、私どもも、二人の息子が小学生の時、教会に行っていました。が、今は行っていません。と言いますのは、その後のつなぎの部分が非常に難しいからです。高知では青年たちの集まりが「博愛園」での共同作業を通した活動があったのですが、最近は無いようです。そのような活動が続けられるような活動が今後あれば、教会の若返りのために良いのでは、と思います。司教様のお話の中にありました、「新求道共同体の道」の神父さんは来ておられますか?来ていないですね。そういうことが一致ということの阻害になっているのではないかと思います。その点もよろしくお願いいたします。

司教様
 <模範的とも言える神父もいます>
「新求道共同体の道」の神父さんとも私は一緒に暮らしています。非常に真面目で、いい神父さんが居るのです。毎週水曜日には、本部事務局では、2時間ぐらいかけて、一週間の報告と計画を話し合っています。共に祈り、共に働き、共に食事をする、従って当然私のスケジュールは、皆が知っています。心を一(いつ)にしての司牧をしています。そういう意味で模範的で文句を言うことが出来ない神父です。今日は池田教会に行っているので、そうでなければ来ていたと思います。
 <問題の本質>
問題なのはこの高松教区でそのグループがどういう風に入ってきたか、神学院に関するいきさつがはっきりと信者さんに知らされていなかったことです。個人の問題ではなく、グループの問題だということが言えます。先程も申しましたが、ローマとしては、そのグループが、どのような形で教区に残れるかを、考えて欲しいと言っています。グループの方も、教区が望む形を受け入れなければ、難しくなるということは分かっている筈です。グループの方も、教区とどういう関係を持つのか、はっきりさせる時点に来ています。ローマもこのグループが残るとすれば、何が必要なのかを求めています。個人的な付き合いの問題は別で、感情の問題がたくさんあって、ことを複雑にしているようです。
<青年たちへの対応、ネットワーク作り>
最初の問題、青年という問題ですが、青少年委員会は年間行事を組んでいます。"子供の集い"とか、来年の2月には"高校生の集い"18日に高知で"青年の集い"があります。教会での"集い"をする度に、青年たちのネットワークが生まれてきて、お互いが繋がってきていると考えています。この中で彼らと一緒に、自分たちは何が出来るかを、考えなくてはならないと思っています。今は単発的に行われているものが、ネットワーク化出来るかどうかが課題です。この間の愛媛県での"子供の集い"では、80人位の参加者で、その様子はビデオ録画し、皆が"子供の集い"の様子を見ました。また松山教会での岡田大司教様を招いての"あっちこっちミサ"と"カテキジスの集い"も行われました。2回目は高知で行われます。その間に青年たちのネットワークは確実に生まれてきているのです。
<中高生への模索>
比べて中高生はどうしていいのか分からない状態です。そこで前回、三重のサレジオ会の中高生を呼んで、「男声合唱を聴く」ということで、中高生に集まってもらいました。今度、高校生のために何が出来るかということで、成功するかどうか分かりませんが、2月に"高校生の集い"を開いてみようと計画しています。委員会が企画を出す時、司祭たちや信者たちが、そのことに目を留めて、具体的且つ積極的に声掛けを行って頂きたい。教会の歩みに、「共に」という連帯感が無く、皆がそっぽ向いていては、幾らBr.八木が万能であっても、成功しないのではと、懸念します。

Q5
 私の娘は、青年会のあとを引き継いでいますけど、後進を育てるのが難しいと言っています。現実には、先日松山にも行ったし、高知でも司教様を迎えての行事を計画しているとのことです。青年といいましても、大学生はいいのですが、社会人はなかなか参加できないみたいです。これが今の問題です。

司教様
 難しいのは百も承知の上で何が出来るのか模索中です。一人ひとりが声を掛けてくれるとよいのでは、と思います。一人でも参加してくれれば、そこにネットワークが出来ます。私はこういうタイプなので、一度知り合ったら、確実にいたします。司祭になって40年間、青少年に関わって来ました。生涯若者たちを大事にする姿勢を、私は決して崩したくないと思っています。この点はBr.八木に聞いたほうがいいでしょう。

Br八木
 前述の、施設での活動ですが、社会の変化といいますか、その施設はとてもいい施設なのですが、なかなかオープンにすることが困難で、若者を受け入れる体制が整っていなくて、現実にその活動を行うことが難しくなりました。加えて、参加する高校生が、エチケットを知らなくて、いろいろ問題を起してしまうということがありました。ですが、今、司教様が仰られたように、単発的なものから、将来的には、社会の中で、自分の持っているタレントを生かした方向を目指せるように、と期待しております。今まで活動が中断していましたので、突然大きなことというよりは、徐々に目指すべき方向へ歩もうとしています。

Q6
 私は、洗礼を受けたのが6年前ですので、教会のことが良く分かっていないのかも知れませんが、「一致」という問題について、初めて聞きました。青少年に関しましては、私が洗礼を受けるときに、周りの孫たちには同席してもらいましたし、何回も教会に通ったのですが、どうしてか、いつの間にか、教会に行かなくなりました。思春期に入った所為かも知れませんが、孫たちは「教会は中身が難しい」と言います。聞いても、具体的にはいろいろ理由を並べるのですが、もちろん私自身も教会で「難しいな、ここは」と思ったことが、数回あったのですが、そこをうまくクリアすれば、教会はいい場所であることは、分かるのですが、若者にとっては、それを乗り越える力というか、機会が欠けている、と思うときがあります。小さな子供たちが、大人になるまでの間に、恵まれた機会を活用していただいて、信仰の意味、大切さを、どう伝えるかが問題となってきます。楽しい集いと言いましても、期待されている楽しさと、提供する楽しさが、時にはずれがあるように思います。若者でなくても、私より少し若い年代の人と、何年もこういう話をしているのですが、人の心を動かすというのは、非常に難しいと感じています。司教様に、青少年、壮年期の人々の悩みなどは、教会として、応えることは出来ないのかと、お聞きしたいと思います。

司教様
 私も年を重ねました。若い頃は、体を使っていろいろ出来ました。バスケットが好きでしたから、若いときは、一緒にバスケットをよくしました。登山も好きでしたから、一緒に山に行きました。体を使って一緒に動くリーダーは必要だと思います。だんだん歳をとりますと、別の方法を考えなくてはなりません。最近は料理を一緒にと試みています。ご飯を食べに連れて行って、というよりは、ご飯を一緒に作りながら、おしゃべりが出来ますし、楽しい時間を過ごせます。どんな集まりであっても、そのミーティングの後には必ず、フィードバックをいたします。40年間ずっとそうしています。今過ごした時間は、自分にとって、どういう意味があったのか、そして必ず一言話して別れます。その時必ず玄関まで見送るとか、握手するとか、矢張り親愛の表現はそれなりに必要、且つ大切だと思います。ただ集まれば、勉強すれば、ということではないと思います。一対一で悩みを聞けばそれで済む、ということでもないようです。いろんな機会に行って、若者が一人二人と目に付けば、必ず声を掛け親しくなります。メールを貰います。私は、忙しくしていますと、メールの管理をしている若者が、いろいろな活動の情報を教えてくれます。そして、一つ一つの活動の輪は、バラバラで、繋がっていないようですが、ある活動で、有機的な繋がりが見えてきたりします。仙台に居るときには、洗礼を授けた男女一人ずつが、連絡やメールの管理をしてくれて、活動や企画の助けとなりました。仙台は確かに大きな都市ではありますが、最初はゼロだった活動が、何かの計画をいたしますと、常に70人、80人は直ぐ集まりました。いろいろな集まりをしており、そして皆で一緒にという時には、前述のように多くの人がすぐ集まりました。教会の夏のキャンプなどは、グループ毎に、6箇所の教会に派遣するくらいでした。発想が豊かな、いろいろ考えて行動するリーダーが必要だと思います。

Q4,5の補足
 先日、わざわざ、他県に転出されたジュード神父さまに来ていただいて、結婚式を挙げるカップルがありました。もう一組は、池田と観音寺の若者が結婚しました。どちらも、司教様もご存知ですが、小さな集まりの輪は、将来の大きな可能性となっています。小さな種は、何倍にもなって実を結ぼうとしています。ご報告させていただきます。

Q7
 質問ではないのです。私は、江の口教会の者。「新求道共同体の道」の責任者です。18年間この「道」を歩んできて、少しでも、ご理解いただければと思います。私は自分から進んでこの「道」を歩んでいますし、個人的には私の力ではなく、神様の導きで歩んできたと信じています。よいものをいただいています。東京の豊島教会で、教会の許しを得て「新求道共同体の道」に入りました。高知において、私共のしていることを少し、簡単に説明いたしますと、水曜日に"はまゆう会館"で、"みことばの祭儀"を行っています。そして、"感謝の祭儀"は、司祭が来て下さるときは、土曜日に"はまゆう会館"をお借りして捧げております。この先の「新求道共同体の道」については、神様にゆだねます。司教様にゆだねます。この「新求道共同体の道」を、お許しいただけるなら、守っていただきたいと思います。

司教様
 何度も話しましたが、教会の新しい運動がある、これは教会も認めていることです。それは私たちもよく理解しなければいけないことです。個人的にも、それによって救われる人がいることは良いことだと思います。ただ、高松教区では、そのことのために、いろいろな問題が起こったというのも、事実です。起こった事実の原因は何だったのか、よく分かって欲しいのです。そういう中でも、自分たちが活動を続けるためにはどういう点に留意し、どういう点を譲歩して、この教区内で、教区を作る方向に向けていく努力をしていけるか、ということです。グループの中の日本人が、教会の中で、どういう立場にあるかを理解して、運動を進めていってくださることを希望しています。外国人の方は限界があると思います。日本人が、外国人のすることを、その通り踏襲するとしたら、また摩擦が起こる可能性が多いと考えます。「新求道共同体の道」の日本人に、自主性と、事情をよく理解する努力が欲しいと、私は言い続けたい。決して捨てるということではありません。どのように日本の教会に、この高松教区に寄与でき、中に入っていけるかを、真剣に考えて欲しいのです。

マヘル神父
 四万十川のマヘルです。ミサを英語ではなく、タガログ語でもなく、日本語で行うことはいいことだと思います。教区のフィリッピーナは、私より日本語が上手ですので。今、歌はタガログ語ですが、ミサは日本語です。四万十市は範囲が広くて、教会からは遠いです。今日は数家族がこの行事に参加しました。来るためには、とても時間と経費もかかります。今日はここに来ますのに、大野見から、また、窪川からの時間は、一時間半、電車は約6,700円もかかります。でも彼らの信仰心は強く、常に司教様、司祭に協力したいのです。日常の彼らにとり、「新求道共同体の道」のロメロ神父は、フィリッピン人でもあり、皆とても喜びます。だから出来るだけ、その地方に行ってもらうのです。日本語の分かる伝道師か、手伝う人が居れば、受け入れたいと希望します。心配しますのは、フィリピーナの信者の家族は多いし、多くの子供の教育は心配です。たくさんのフィリピーナがいても、土佐清水市は範囲が広く、遠いのです。ですから、車があって、廻っていくことの出来る手伝う人を、欲しいと思います。最後に、彼らは、米つくり農家だったり、漁師だったりで、お米、釣った魚、野菜などを、教会に届けてくれて、とても助かっていますが、私たちは教区に送るお金が無いのです。金持ちではありません。その点理解してください。

司教様
 外国人の人たちを含めて、ミサについて考えたらいいと思います。朗読はどうするか、歌をどうするかと。彼らが共同祈願に入るとか、典礼委員会の中にフィリッピンの人が入るとか、何か知恵を出し合って、子供も入れるようにするためにはどうすればよいのかとか、一ヶ月のうち、第一日曜日は徹底して若者のためのミサにするとか、を考えたらよいのではないかと思うのです。分離して考えるのではなく、一致して、一つの方向に向けていく、ということが大事だと思います。フィリッピン人のロメロ神父が行動し、何時も一緒に、というのですが、子供たちは英語も殆ど分からないです。タガログ語も同じです。殆ど日本語で通じるから、逆に日本語での活動の方が、彼らにとってもいいのではないかと思っています。ただ、彼らの独自性を保つために、便宜的に彼らのミサをし、一緒に焼肉でもして、というのはいいのではないかなと、思っています。私は、クリスマスパーティーをもう、予約されています。出席する予定です。今年は、フィリッピン人のための、英語での黙想会を、復活祭の前にいたしました。聖書を読みまして、「一日黙想会」というものをいたしました。なるべく、日本の共同体の中に入っていけるように、日本人のほうも、"外国人だ!"というのではなく、彼らを自然体で受け入れていける共同体を、作らないといけません。"希望の星"はフィリッピンの子供たちでしかないような気がします。本当に彼らは、教会の大きな力です。高松教区の信者総数は5,200人ですが、フィリッピンの人々は、子供を含めて、7,000人居るということです。カトリック教会では、日本人よりも多いということです。黙って見ているわけにはいかないのです。そういう面で「人権を考える委員会」を立ち上げて、その中で―移住・移住者―について、真剣に受け止め、外国人司牧をしようとする体制を、考えようとしています。教区としても、腰を据えてやらねばならないことだと、思っています。といって、今直ぐに、中村に誰かをというのは出来ませんが、何か出来るといいですね。       −終わり−

※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています。