2006高知地区教区民のつどいミサ説教 エレミアの預言(31:7−9)

2006年10月29日
  於:江ノ口教会

<神の民>
 今日は、エレミヤの書を、ご一緒に考えていきたいと思います。今日の第一朗読エレミヤの書では"神の民"ということが話されております。どういう風に言っているのでしょう。"神の民"を"イスラエルの残りの者"という言葉で表現しております。"残りの者"とは、誰のことでしょう。別の訳では"残された者"という訳もあります。自分で道を選んだ人は、去っていって、去って行った後に残った人を神様は選ぶということを指しております。ずっとそこに残っているから、神様は選んだ。自分で、自分が、自分をと、考えた人は去って行く。神様の選びに当たらない、ということを述べています。
 では残された人、残った人たちとはどんな人でしょうか。更にエレミヤ書を読みますと、「残った人」とは目の見えない人、歩けない人、臨月の女の人、というふうにいわれています。「残された人」人生で不自由を感じている人、その人たちを神様はお選びになって、「神の民」を作ったというのです。「神の民」を新約聖書では、「教会」と呼びます。人生で不自由を感じている人を神様が選んで、自分の民、教会としてくださいました。どうしてかと申しますと、足の不自由な人は自分の思う方向に歩けません。目の不自由な人も、他の人の助けを借りなければ歩けません。臨月の人も身重であって、自分一人で自由に歩くことは出来ません。即ち自分独りで自由に歩いてどこでも飛んで行った人たちは、神の選びに適わなかったということを言っております。
 では、私たちがこの教会を作ってこの教会に入ってきたということは、どういうことでしょう。私たちも"残りの人"だからです。自分の人生の中で、苦しんで生きてきた、だからあなたは選ばれたのです。"自分が自分がと言わないで、神様の手の中に自分を任せたから、選ばれたのです"ある意味で、"人間的には余り恵まれていない人々、これが教会ですよ"ということです。普通一般に、教会といいますと、聖人君子、或いは立派な人、という印象があるかもしれません。でも、聖書を借りますと、一番欠点の多い人、一番人間的に難しい、いろんな問題を抱えた人たちが、教会として選ばれた、とこういう風に考えたらいいでしょう。だから、彼らは「泣きながら歩いていく人」と訳されております。私たちも、ここに居られる方々で、60年、70年、80年と生きてきたこと、何度涙を流したことでしょう。何回人との別れを繰り返したでしょう。何回自分の人生の深みに落ち泣き叫んだことでしょう。丁度そのことのために、神様は私を教会に呼んでくださったのです。調子がいい、何の問題は無く、何でもないその時に教会に行くのではなく、自分の人生の一番大きな問題を抱えているその時に、教会に行く、と考えたらいいでしょうか。
 そして今日、答唱詩篇で私たちは歌いました。「涙のうちに種まく人は、喜びのうちに刈り取る」本当だと思います。福音書では、バルティマイが「見えるようにしてください」と、お願いします。これなのです「神の民」は。自分は見えないから、自分が歩けないから、だからお願いします。見える人、普通の通りに歩いていける人は「お願いします」という祈りは出来ません。自分独りでやって当然と思ってしまいます。神様はこういう人ではなく、自分の苦しみの中から「お願いします。あなたのみ手の中に」と、言っているほうをお選びになります。なんて慰めの多いことでしょう。私たちにはたくさんの欠点があり、人生にたくさん躓いてきました。でも、丁度そのことのために、神様はお選びになる。その中から「お願いします。見えるようにしてください」と、私たちは何度願ったことでしょう。この「神の民」の先頭に立っておられるのが神様です。エレミヤの書をご覧になってください。神様は涙を拭ってくださる方だと、言っています。人生の中で流した涙、それをきれいに拭ってくださる、と言っております。私たちの涙は報われます。きれいになります。目を開いてくださいます。「神の民は苦悩の最中にあっても、神様と一緒に約束の地に向かって歩みます」私たちの高松教区は今、苦悩の最中にあるかも知れません。よく見えないかも知れません。今から歩まないといけない。でも、丁度そこに神様の手があります。信頼して、心配しないで、その中にこそ「見えるようにしてください」と言う祈りをしていかないといけません。しかもこの「神の民」は、エレミヤの書を読んで見ますと「声を響かせ、賛美の歌を歌って、列を成して歩いている」ということです。
 今私たちは賛美の歌を響かせて、声を響かせて一緒に祈って、一緒に歌って歩いております。それは「神の民」です。これは「教会」です。「教会」の中に居る私たちは、一人ひとりが自分の人生の問題を考え、悩みます。一人ひとりが教会の問題を考え、悩み、その中から、神への賛美を一緒に歌っていく。考え方の違いがあるでしょう。感性の違いがあるでしょう。でも一緒に賛美の歌を歌っている。これが教会です。大事なのは、ここで一緒に賛美の歌を歌うことです。
 先程も言いました。「神の民」とは、"教会"のことです。教会はエリートの集団ではありません、取り残された、小さな小さな貧しい人々の集団です。私たちも小さな小さな貧しい人々だからこそ、神様は選んだのです。傲然と胸を張った人を、神様はお選びになりません。謙虚で豊かな人生を生きようとしている人を、神様はお選びになります。神様を信じて、神様に守られて、手を取り合って生きていく集団、これが「教会」です。その集団の中にあって、いろんな感性の違いはあっても、乗り越えなければいけません。自分の、ものの見方に固執して、分裂してはいけません。頑張らなくては、手を取り合って、賛美の歌を一緒に歌わないといけません。手を取り合うだけではなくて、「賛美の歌を歌って、祈りを大きな声でしている共同体」と、エレミヤの書は言っております。先程、答唱詩篇はきれいに歌えました。歌を大事にすること、祈りを大事にすること、ミサの立て方をどういう風にするか、毎日曜日の説教をどうするか、何処に実りがあるか、それはしっかりと考える必要があります。日曜日のメインのミサに共同体は全てを賭けなければなりません。そのとき初めて「神の民」という、実感が湧いてきます。必ず神様は、涙を拭ってくださいます。必ず神様は私たちに大きな、大きな慰めを、与えてくださいます。結論です。私たちの教会をどのように考えたらいいのでしょう。高知のこの教会はどのように考えているのでしょう。どのような教会を私たちは求めているのでしょう。どのような教会を作りたいと考えているのでしょうか。今日の"教区民のつどい"の集まりの根源的な疑問、質問を残して、私の話を終わりたいと思います。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています