2006愛媛地区教区民のつどい講話
2006年9月17日
於:今治教会
本日の話は、一時間で簡潔に要点をお伝えしながら話をしたいと願っております。
今日は「ミサ」というテーマ、感謝の典礼についてお話します。というのは今年聖体の年に当っておりますので、教区の目標に添ってこの話をするということでして、ミサこそ一致の印であることを確認したいと思っています。"ミサこそ教区を一つにまとめる力"。こういう視点からお話をさせてください。
ミサの三つの部分についてお話します。第1が「みことばの部」、第2部が「聖体祭儀、秘蹟の部」、第3が「聖体拝領」、この三つのことを話します。 たくさんありますので、あまり微に入り細に入りにしないで全部話せるようにもっていきたいと願っております。
第1部 「みことばの部」
A、B、Cに分けて話をします。Aは「み言葉の部の三つの原則」、Bは「賛美する」、Cは「奉仕する」この三つのテーマです。
賛美するために色々なことがありますが、私は今、言葉ということを言いましたが「歌を大切にする」ことも強調します。どうぞ歌を大切にして下さい。
原則としてはリズム感を持って歌う。だらだらと歌う歌い方をしない。神への賛美はいつもリズムがある。どのように歌を歌っているか、少し反省して考え直してみてください。こうして心が高められるような歌の歌いかた、これは教会全体が考えないといけない課題となっています。オペラ調ではない。だれかが一人で歌う演劇ではありません。
中から溢れ出る歌声です。カトリック教会は詩篇を非常に大切にしてきました。
詩篇にはリズムがある。詩ですからリズムがあります。そのリズムに合わせて歌を歌う。喜びの歌だったらそのリズムに合わせて喜びが溢れるような歌がある。悲しみの歌だったらその悲しみの中に沈んだような歌がある。だから今歌う詩篇とか、歌の意味がよく分かって、それに合わせて歌っていかないといけません。
歌はミサにあってとっても大事な要素です。自分の教会でこの歌をどうしているか少しお考えになってみてください。歌をどうしたいと思うか、お考えになってみてください。そして、この歌には会衆が交わるということが大事です。特に答唱詩篇を歌うソリストは自分が声を張り上げて歌うのではなくて、聞いている人がそれによって祈る心が出来るように、こういう歌い方が求められます。これで歌は二倍、数倍の祈りであるという意味がお分りになると思います。その意味ではソリストはことばが解るように歌う、オペラ調だとことばが解らないですね。飲み込んでしまっているので 聞いている人がその言葉が解るような歌い方をする。これはとても大事な点になってまいります。
そして、最後に一緒に歌うこと。ソリストばかりが歌う、あるいはある人がものすごい大きな声で歌っている、そこには調和がありません。会衆が一緒に歌を歌っている、賛美を捧げているとこういうことが必要です。
繰り返します。「歌は最高の祈りである」と。もう考える材料はみなさんの手元に残ったと思います。一度どうぞお帰りになったら自分達の教会の歌はどうなのか、朗読はどうなのか、祈りはどうなのか、少しお考えになってみてください。
C 「奉仕する」
ミサというのは奉仕です。教会には種々の奉仕があります。
第2部 「聖体祭儀、秘跡」
聖体祭儀、秘跡の部。
ミサの中心です。第二奉献文を読みながら、話をまとめていきましょう。
まず、「聖体」についてと、ついで「いけにえ」について、三番目が「交わり」について話します。
A 「聖体」について
最初に典礼文を読みます。「まことに尊くすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものを尊いものにしてください。この祈りの下に赤い文字で「エピクレシス」と書かれています。「エピクレシス」とはどういう意味でしょう。まずこのときに司祭が按手します。
按手するとはどういう意味でしょう。按手するその時に「エピクレシス」、聖霊が降るという意味です。いま、ミサの中で神父様が按手するそのときに聖霊が降るのです。聖霊が降るように祈る、これが「エピクレシス」です。まず秘跡の最初の部で聖霊が降ってくださいというお祈りから始めます。
考えてみてください。司祭が按手するその瞬間に聖霊が降るのです。祭壇は聖霊でいっぱいなのです。ひいてはこの聖堂全体が聖霊でいっぱいに満たされるのです。私達はそれを信じるからカトリック信者になったのです。プロテスタントの信者ではなくてカトリックの信者になったというのはこういう意味なのです。
按手を通して聖霊がここに本当に降る、今ここに聖霊がいるということを信じています。では、何のために。「聖霊によって供え物を尊い物にしてください」。このパンとぶどう酒、これがわたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますようにと祈ります。聖霊が降るのはこのパンとぶどう酒がキリストのからだと血になるように祈るのです。
按手の瞬間に聖霊が降りて、このパンとぶどう酒がキリストのからだと血になるのです。信じていますか。カトリックの信仰はこれなのです。プロテスタントの信仰は違います。ルターはミサの中でパンの中にキリストはいるが、パンがキリストになったわけではないと教えています。パンの中にキリストがいるのであって、パンがキリストのからだではありません。そこにいると信じたらそこにキリストがいると考えます。
私達は、この按手によってこのパンとぶどう酒がキリストのからだになるを教えます。ルター派の教会では晩餐が終わったら聖体はありません。
カトリックの信仰では御聖体はミサが終わってもそれはキリストのからだなのだから、聖櫃に入れて大事にします。これがキリストのからだと信じている信仰です。
ルター派の教会に行っても聖櫃はありません。ミサの中で信じている人にはキリストがいる、信じなければいない。そこにあるのはパンにすぎないという見方をいたします。これは、スイスの改革派のヅビングリと同様です。イエスさまが記念として行いなさいというからミサを行うのであって、昔イエス様がこのパンとぶどう酒を捧げた最後の晩餐を記念するだけであって、その時キリストのことを思うことで十分なのです。パンとぶどう酒がキリストのからだと血になるなどは信じていない。最後の晩餐を思い起こすことでキリストがその人の中にいるのです。
改革派の教会というのはたくさんありますが、いずれもパンはパンであってキリストのからだではないということでは共通しています。このパンを信仰を持って受け入れ、そのパンが頂いた時にキリストが働いてくださると言うのです。パンを食べる時にキリストのことを思い出したらキリストさまが私の中で働いてくださるというものの見方をしております。
カトリック教会はこの按手によってキリストのからだ、キリストの血になると教えます。私たちはキリストのからだを受ける、キリストのからだをいただいた私たちはキリストと一つになる。キリストのからだは私の中で一緒に生活し私を中から変えていってくださる、これがカトリックの信仰です。皆さんどう思われましたか。
カトリック教会に来たというのはこういう意味なのです。司祭がキリストの言葉を借りて「私のからだである」と宣言する時にキリストのからだと血がある。残すのはパンではなくキリストのからだなのです。
「イヤー信じられない、そんなのおかしい」と思われる方がいるかもしれません、でもこれは非常に大事なカトリック教会の教えなのです。だから、「エピクレシス」按手とその後はとっても大事な時です。その時を大事にしないといけません。司祭達もこれはゆっくり、ゆったりとした動作の中で聖霊を待ち望み、ことばをはっきり申さねばなりません。
単なる儀式ではありません。その瞬間に聖霊が降り、その瞬間にキリストのからだがそこに降るのです。大事な瞬間としてその時を受け止めていかないといけません。
これと平行しまして、司祭職が大事になってまいります。プロテスタントの教会は秘跡がありませんし、別に司祭がいなくてもいいのです。万人司祭ですからだれでもいいのです。「二人三人いる所にはキリストがいる」だれが按手してもいいのです。
カトリック教会は秘跡による司祭職、司祭が要るということを強調します。彼が秘跡による司祭職を行使することによってパンとぶどう酒がキリストのからだと血になる。なにがなんでも神父が教会にいっぱいいて欲しいという意味ではありません。只言いたいのは司祭の本当の役割はこれであり、後のことはさして重要でないのです。ある意味では司祭はそんなに多くはいらない。でも、この瞬間にかける司祭が要るのです。逆の意味ではこの瞬間にかける司祭でない人は司祭でないのです。司祭はここにいのちをかけるのです。日曜の主日のミサのこの一点にかけていく、こういう心がけが大事だということです。
信徒もその一瞬に向けて主日のミサに与っています。ここがプロテスタントとの決定的な違いとなってまいります。どうしてカトリック教会には司祭が必要なのかというテーマにもなってまいります。
だから次に言うのですね。「主イエスはすすんで受難に向かう前、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。」最後の晩餐の場面です。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。」
わたしのからだである。だから捧げている司祭はキリストになってしまったのです。イエス・キリストはパンをとり、これがわたしのからだと宣言します。キリストの祭司職を持つ司祭たちがキリストのからだになり、そしてキリストと司祭が一つになって行動します。
B 「いけにえ」について
聖別のことばが終わった後に、「アナムネシス」ということばが載せられています。「アナムネシス」とは記念するという意味で、「記念として行いなさい」を実行することです。では、何を記念するのでしょう。
最後の晩餐が行われたことを記念します。しかし、言われたから繰り返すのでしょうか。そうではありません。本当に記念するのは、このパンとぶどう酒がキリストのからだになり、神さまに捧げられることを記念するのです。これを「いけにえ」とよんでおります。
「いけにえ」に捧げられて焼かれていく動物がいます。動物が焼かれる時その匂いが天に昇って行き、食物を焼いたその匂いを嗅いだ神さまは、焼かれたいけにえを捧げている人の思いを聞き入れます。私たちはミサに来る時に「いけにえ」として捧げる供え物を持ってくるのです。それを今、祭壇の上に置きます。私たちの捧げ物はイエス・キリストのからだと血と一緒になって神さまに捧げられていきます。
祭壇の上に置かれたパンとぶどう酒はキリストのからだとなり、そのからだは十字架に付けられて神に捧げられます。
キリストさまは何のために自分を捧げるのでしょうか。十字架に自分を付けながら人々の苦しみを捧げていくのです。
イラクで戦争があって泣いている子供がいる。あの子ども達の叫びをイエスさまが十字架の上から捧げているのです。
今治教会でお年寄が亡くなろうとしている、人生の最後をもがいている、それをごらんになってその嘆きを神さまに捧げられるのです。神さまはイエス・キリストが捧げる祈りを、その嘆きを聞いてくださるのです。これを通して今亡くなろうとしているこの人に勇気を与えらます。今イラクで飢えに苦しんでいるその子どもに力が与えられる、ミサとはこういうことなのです。
キリストさまが自分をいけにえに捧げることによって、この世の苦しみを背負って下さるのです。それによって大きな助けが神さまから来るのです。
いけにえを捧げることで、必要な恵みがすべての人に与えられていきます。
第二奉献文では「すすんで受難に向かう前に、パンを取り感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。」この「割って」という表現が使われていますが、今度の日本語の改訂版では、「割って」は原文の意味に遠いということで、「裂いて」ということばを使っております。「裂く」というのはなにか生々しいのですが、「裂く」というのはいけにえとして捧げるという意味を表わしております。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである」。「渡される」とは、いけにえとして捧げられるの意味です。ですから、今ミサの中でパンは人々のために裂かれて、神さまに渡されていく、こんないけにえですよと伝えています。
「食事の終わりに同じように杯を取り感謝をささげ弟子に与えて仰せになりました。皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、キリストの御血なのだと、あなたがたと多くの人のために流されて、流される罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」
「流される」とか、「血の杯」とか、「契約の血」とか、いずれもキリストの十字架の血ということを表わしております。だからミサの中でパンとぶどう酒がキリストのからだと血になる。わたしたちはこれを捧げるのです。それを捧げる瞬間にキリストはわたしたちのために全部を捧げてくださる。その結果、人々の救いがここから始まります。
最後にまとめてみましょう。
C 「交わり」について
「アナムネシス」と先ほど言いましたが、ただ昔のことを思い出すというのではなく、キリストが十字架に付けられて死んだこと、そして今、目の前で十字架につけられている方がいること、それを思い出すことです。死んで復活されたことを思い起こすのです。
私はどうしてもこの人とうまくいかない。わたしの家庭の中で自分の姑と嫁とどうしてもうまくやっていけない。しかし、「キリストのからだ」と司祭が私に示す瞬間にキリストさまがしてくださるのです。信じていますか。信じるのです。自分でと思っている気持を捨てるのです。神様がしてくださる。人間関係のもつれも、或いは世界の平和も全部含めて、神様がしてくださる、これを信じてキリストのからだを見つめることです。これが信仰というものです。
司祭が示しているのに深く礼をしてパンを見ないということは駄目ですね。キリストさまのからだを見て自分を捧げないといけません。捧げるときに何を捧げるかも考えないといけません。
ミサに与る私たちにはどんな役割があるでしょう。キリストさまと一緒にミサを捧げることによって人々の救いが始まります。平和が始まります。喜びが始まります。すばらしい世界が生まれてくるのです。それは私がするからではなくて、神さまがしてくださる。この瞬間、私がお願いしたことによって神さまが働いてくださる。ミサの与る私たちは神さまを動かすほどの大きな力があるということです。
ミサに与り、キリストさまと一緒にいるから神さまは断れないのです。その瞬間こそ私の願いが必ず聞き取れられる瞬間なのです。
ですから、あの瞬間見ないといけません。うやうやしくなんてというより見つめることです。ただ有り難い、有り難い、神さまのパンだからというより、一緒に捧げるいけにえというほうが大事です。
こう考えると、私たちキリスト信者の役割は大きいですよね。
小さな群れであるキリスト者の共同体が、日曜日にミサの中で自分をキリストさまと一緒に捧げることによって、この今治市の中に大きな救いが始まっているのです。
私が何とか言って、説教して、話すことよりもミサを生きることのほうがもっと大きな意味があるというふうに考えたらいいと思います。だからこそ典礼委員会の役割は大きいのです。朗読奉仕者の役割も大きい。オルガニストと聖歌隊の役割はかけがいのない大切なものです。
だから続きます。「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、パンとぶどう酒を捧げます。」、十字架と復活がその時見えるのです。「ここにあなたに奉仕できることを感謝し」、一緒に捧げていることがとっても嬉しいという気持ちで、「いのちのパンと救いの杯をささげます。」となります。
主語は誰でしょう。私たちです。みんなで捧げている。祭壇にいる司祭はキリストになってしまった。キリストはご自分を捧げ、ここに一緒に集まっている信者さんたちは、私たちも一緒に捧げています。
「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが聖霊によって一つに結ばれますように」やっと見えてきます。この瞬間、私たちは一つなのです。この主日のミサを大事にしないと私たちは一つになれないのです。色々なミサがあるかもしれない。でも、一番大事なのは小教区の中の主日のミサなのです、これが共同体を一つに結ぶ大きな力、これが唯一の力と言ってもいいと思います。
これをないがしろにすることは許されません。だから、主語が私たち、キリストを神様に捧げる会衆、わたしたちみんなとなります。
第二バチカン公会議は「ともに捧げるミサ」ということばを使っています。一緒に捧げるミサです。司祭だけが自分のことばで捧げ、信徒たちはただ与っているという状態はどうしても変らなければいけません。
何も考えないで、ミサに与っていればいいなどという考えは少しずつ変っていく必要があります。その結果は今、言いました「聖霊によって一つに結ばれますように」です。
高松教区では、一致への動きということを非常に大事にしています。一致は主日のミサをどのように生きるかにかかっています。どのように大事にできるのでしょう。
ミサに与ればいいんだという気持を捨てないといけません。信徒一人一人の意識の改革がかかっています。ミサをどのように生きるか、これを大事にして小教区が生き生きとしてきましたら一致が生まれてきます。必ず生まれてきます。一緒にいけにえを捧げることによってミサが一致のしるしとなります。
友情とか、対話とか組織とかこんなことを教会が大事にするということも確かでしょう。でも真の一致を見出すのはミサだけです。
いくら信徒会を中心の組織を作っても一致は生まれません。徹底してミサを生きるということから小教区の一致が始まります。教区の一致が始まります。これは信じていいと思います。
どうして主日のミサを教会が強調するのかは今、見えてきていることでしょう私たちに課せられた課題です。日曜日のミサをどのように活性化しますか。
今回の県の教区民の集いに与り、帰ってからこの点についてじっくりと考えてくださったらとっても嬉しい。
この中で司祭の役割は大きいのです。典礼と主日のミサ、司祭たちは本当に深く受け止めていかないといけません。
さらに奉献文は続きます。「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、わたしたちの教父ベネディクト16世、わたしたちの司教フランシスコ溝部脩とすべての教役者をはじめ、全教会を愛の完成に導いてください。」或いは、「復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください」と。
今、世界の交わりの中に私たちはいます。ここ今治教会には30人、40人ですが、ミサの中での広がりは世界に及んでいます。教皇、司教、生きているひと、死んだ人、宇宙と、広がりを見せます。生きている人も死んでいる人も、ローマの教皇も司教全員がともに捧げているのです。
以上のことから大事にすることをいくつか述べたいと思います。
「交わりの部」の最後、平和の挨拶について」
奉献文をよく理解した上で平和の挨拶が行われます。
これだけが、強調されてはいけません。平和の挨拶はキリストと共にあずかった兄弟として、共にいけにえを捧げた兄弟として交わるのです。即ち、超自然な交わりです。
この人が好きだからとか、嫌いだとかこの人と私はうまくいくから、交わって挨拶するとか。そんな意味ではありません。超自然でもって人々に深く感謝する、平和の気持を伝える、これが交わりの部になっております。ですから、典礼の中では「キリストによってキリストとともに」交わるのです。
大事なポイントになります。交わりというのは典礼の中の交わりです。人間の交わりとして行うものではありません。
日本の司教団は、交わりを典礼の中の交わりとして「節度をもって」ということばを使って丁寧に優雅に行うように指導しています。自分の気持、平和を願う気持を見せるために兄弟としてゆったりと日本風にきちっと挨拶することが目標かと思います。外国人とはきちんと握手することも出来るでしょう。
くり返します、なにがなんでも人間的な挨拶ではありません。超自然の、典礼の中の節度を持った挨拶であるということを覚えてください。
第3部 聖体拝領
聖体拝領は「キリストの御からだ」と示してみなさんが「アーメン」と答えます。
これはキリストの御からだだよと示しているわけです。キリストの御からだと示しているのに頭を下げて何も見ないと、矛盾があります。じっと見て「はい。信じます。キリストのからだなのですね」と。「キリストのからだですよ信じますか」と言っているのであって「はい。信じます」と言わなければなりません。これが「アーメン。」ということばとなります。下をむいて、何も言わないでただキリストをもらう、じゃないんですよね。ちゃんと聖体を見てください。
あなたに「キリストのからだですよ」と言っているから、「アーメン。はい。」「じゃあ、あげますということになります。」信仰告白です。カトリック教会に属してますよという信仰告白です。
それでは「御からだ」というのは何を意味しているのでしょう。
「からだ」というのは十字架につけられて死んだ、友のために命を捧げた、人々のために全部を捧げ尽くしたキリストのからだをさしています。
「アーメン」とは、あなたが私のために死んでくださったことを信じますという私の答えです。あなたが人々の救いのために全部自分を捧げてくださっていることを信じます。
パンをいただく時に、ただ単に有り難いということではないのです。このパンは私のために死んでくださった、ありがとう。人々のために亡くなってくださった、ありがとう。という信仰告白です。
次に「キリストのからだ」のもっと深い意味を考えてみましょう。
キリストのからだが私の中に入ります。私のからだの一部分となります。それは私を変えていく力です。信じてますか。毎週御聖体をいただいて、キリストさまのからだに私がなっていくのです。
こう考えますと、自分のからだをどんなに、いとおしまなければいけないか、自分のからだをどんなに汚してはいけないか、自分という存在をどんなに高めていかないといけないのか、おのずと知れてくるものです。ご聖体をいただくと、あなたがキリストになっていくことをあらわしています。
そして最後です。「行きましょう主の平和のうちに」と。
ミサが終ったら出発しなければいけないのです。ぐずぐずしていてはいけない。どこに行くのでしょう。それぞれ生きている社会です。自分が属している家庭です。会社です。学校でしょう。自分が生きているところに遣わされるのです。キリストをいただいて。キリストのからだとなって、宣教への出発です。
日曜日のミサが終るたびごとに、ここに200人いれば200人が出発するのです。我々生きている社会に。これこそ宣教であるということが言えるのでないでしょうか。
ミサは出発です。次の週また帰ってきます。また出発する。こういうふうにしてミサを通して信仰に力付けられ励まされてそしてまた出発するのです。
「私は年寄りで何にも出来ません」。そんなことないです。ミサに与ることが一番大きなお恵みなのです。あなたのためではなくて、人々のためなのです。人々のために捧げられていくミサに与っているから、あなたが捧げているミサというのは他のどんなものよりも大きな価値があります。
非常に早足でミサについて大体全部説明しました。
各部門についてもっと詳しく出来ないことはないですけど、これ以上皆さんに忍耐を背負わせたらいけないとおもいます。
一度、話したことがありますが、仙台教区でもミサについて話を続けてまいりました。今こちらに岩手県から二人来ていますけれども、気仙語という東北の方言が大船渡にあります。
その気仙語の方言で聖書の訳をしている山浦さんというお医者さんがいて気仙語でミサを行うことになり私がたてることになりました。私は九州の人間ですから、東北の気仙語でミサをするのは大変でした。発音がぜんぜん駄目なので、できないので私が「祈るベーやー」と言ったら後、気仙語の人たちが祈りも、朗読も全部、歌も全部、答唱詩篇も全部気仙語に代えてリズム感があるようにして、祈ってくれて、ミサを捧げました。
「司教さんたった一つだけしてくれ」と言われて何回も練習したのが最後の挨拶でした。「行きましょう主の平和のうちに」というのを「飛び出すべやー」といいます。「飛び出すべやー」とミサを終っていました。「飛び出せー」「行ってしまえ」とぐずぐずしたらいかんの意味です。ミサが終ったら教会からみんな飛び出していけと、このぐらいのことです。
仙台教区から高松教区へ来る2週間前の日曜日に私はその教会で最後のミサをしました。そして、「飛び出すべやー」と言わされて「飛び出すべやー」と言ったのですが、最後に「あなたがたが飛び出せ飛び出せ」と言うから、高松教区へ飛び出さなければならなくなったと言いました。それが本当の最後のミサになりました。
今日の話を通して主日のミサをどのように生きるか、どのように豊かなものにするか、主日のミサを通して私達が何を捧げるか、そして何をもって出発するか、こんなことがお解りになってくだされば嬉しいと思います。
どうもありがとうございました。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています