聖母被昇天の祝日ミサ説教

2006年8月15日
  於:桜町教会

 (手紙,説教の中で色が違う部分,段を下げている部分は溝部司教様の解説です。)

 最初に皆さんにお詫びをしないといけません。昨日まで殉教者について本を出版する目的で合宿をしていて,今日の説教を準備できませんでした。今日は長崎浦上キリシタン発見の時,プチジャン神父が送った手紙を読ませていただきます。説明するよりは,その手紙の原文を読んだ方が,もっと心を打つのではないかと思ったからです。
 私は仙台に行く前に,長崎の大浦天主堂に住んでいました。神学生と一緒でしたので,毎晩食事が終わってから大浦天主堂の周りを歩きながら一緒にロザリオを唱えて,階段の上のマリア様の前で「サルベレジーナ」を歌って1日を終えていました。
 大浦天主堂には2つマリア様があります。聖堂の中に入りますと,中央祭壇から右手に小さなマリア様が安置されています。それが「発見のマリア様」です。それから階段を上った正面のところに,白いマリア様があります。それは旧信徒発見を記念して安置され「日本の聖母」といわれています。今日は2通の手紙を読みます。1865年3月18日プチジャン神父,教区長宛の手紙です。

 親愛なる教区長様,心からお喜びください。私たちは,昔のキリシタンの子孫がたくさんいるすぐ近くにいたのです。彼らは,貴い信仰に関する事柄を,よく記憶にとどめているように思われます。私が実際にこの目で確かめ,また意見を述べるに至った感動的な場面についてあなたに少しお話しさせてください。
 昨日の12時半頃,男女子供あわせた12名ないし15名の一団が単なる好奇心とも思われないような様子で,天主堂の門に立っていました。天主堂の門は閉まっていましたので,私は急いでそれを開けに行きましたが,私が至聖所の方へ進むにつれて(至聖所というのは聖櫃があるところです。)次第にその参観者たちも,私についてきました。私は,1ヶ月前に初めてあなたが私たちにお与えくださいました御主様,パンの形色のもとに愛の牢獄である聖櫃の中に安置されている御主様の祝福を,彼らのために心から祈りました。

 大浦天主堂の跪き台の中央に跪いて,日本人のためにお祈りをしたということです。

 私は,この救い主イエスキリストの良い記念,聖体の御前に跪いてこれを礼拝し,「彼らの心を感動させるような言葉を私の唇に浮かべさせ,私を取り囲んでいる人々の中に御主を礼拝する人々を得させてください」と切願いたしました。私がほんの少しだけ祈った後でしたか,40歳ないし50歳ぐらいの婦人が私のすぐそばに来て胸に手を当てて申しました。「ここにおります私どもは全部あなた様と同じ心でございます。」

 プチジャン神父はフランス語で書いたのですが,ルノーという神父がその場に居て日記に書いているのでは,「『我らの胸,あなたの胸。』と言った」と日本語で書いてくれています。「同じ心」というのは,間違いない言葉だったと思います。
 「ここにおります私どもは全部あなた様と同じ心でございます。」実に司祭不在のまま,350年を経てやっと司祭に出会ったのです。

 「本当ですか,しかしあなた方はどこからおいでになりましたか。」と私は尋ねました。「私たちは,全部浦上のものでございます。浦上ではほとんど全部の人が私たちと同じ心をもっています。」。それから,この同じ人はすぐ私に聞きました。「サンタマリアのご像はどこ。」。

 ルノー神父は「サンタマリアのご像はどこ」と,ローマ字で書いております。

 サンタマリアによって祝されたこの言葉を聞いて私はもう少しも疑いませんでした。私は,確実に日本のキリシタンの子孫を目の前にしているのです。私は,この慰めを神に感謝いたしました。
 この愛する人たちに取り囲まれせき立てられて,私は,あなたがフランスから私たちのために持参してくださいました聖母のご像を安置している祭壇に,彼らを案内しました。

 これが今,大浦天主堂の右側にあるマリア様の像です。

 私に倣って彼らも全部跪き,そして祈りを唱えようとしましたが,しかし喜びに夢中になって聖母のご像の前に口々に言いました。「そうだ本当にサンタマリア様だ」「ご覧なさい。御子ジェズを御腕に抱いていらっしゃる。」

 キリシタン時代,イエス様をジェズといっていました。

 そして,すぐに彼らの中の1人が私に申しました。「私は御主ジェズ様のご誕生の祝いを,霜月の25日にいたします。」

 12月の25日に降誕祭を祝っております。

  「この日の真夜中ごろ,御主は馬小屋に生まれ,貧困と苦難の中に成長されましたが,33歳の時私たちの魂の救いのために,十字架上でご死去なさったと聞いております。」

 300年間,司祭なしで教えは全部保っていました。

  「ただいまは悲しみの季節です。」

 四旬節です。

 そして,「あなた方にもこの祝日がありますか。」と尋ねますので,「はい私たちにもあります。今日は悲しみの節の17日目です。」と答えました。彼らはこの悲しみの節という言葉で四旬節のことを言いたいのだということがわかりました。今,善良な訪問者たちは聖母のご像を眺めながら,私にたくさんの質問をしました。ところが,他の日本人たちが教会の中に入って来るやいなや,私の周囲にいたこの訪問者たちは四方八方に散りました。しかし,直ちに引き返してきて「あの人たちのことは,なにも気遣うことはありません。あの人たちも我々の仲間で,我々と同じ心のものでございます。」と言いました。私は,この訪問者たちともっと話したかったのですが,聖堂内をいろいろな人たちが行き来していたのに妨げられて,それができませんでした。それでも,浦上の信徒たち(今日から私は彼らにこの名前を与えたいと思います)は,また私に会いに来ることを約束しました。彼らがなにを伝承しているか,少しずつ見届けましょう。彼らは十字架を崇拝し,聖母を愛し祈りを唱えております。しかし,それらがどんなものか私にはよくわかりませんが,あとでその他のことも詳しくわかると思います。

日本の宣教師ベルナルド・プチジャン

 これが行われたその前後,大浦天主堂の上にあるグラバー邸では,鉄砲とか大砲とかの売買の話し合いが行われ,坂本龍馬とか幕末の志士たちが集まっては,薩摩と長州が一致して新しい日本を作ろうという密談を続けていました。そのすぐそばでは,こうした発見が行われていたのです。そして浦上の信者さんたちから始まって,次から次に信者たちが集まるようになって参ります。
 その間に,プチジャン神父は「発見の聖母のマリア」のご像をフランスから取り寄せて,海が見えるところに置こうという計画を立てます。浦上の信者たちはお金がない貧しい農家でしたが,みんなでお金を出しあって,そのマリア様のご像を買い取ろうとします。1867年6月2日にご像の祝別式が行われます。大浦天主堂の階段を上ったところにあるマリア像は,1867年の6月2日に祝別されました。そのときにはフランスの兵隊,イギリスの兵隊,ロシアの兵隊といろいろな人が集まり,盛大な祝いとなりました。
 そのときに,プチジャン神父がした説教が残っています。

 日本のノートルダムは,聖母に対して与えられた新しい称号ではありません。いつの世でも日本の教会は聖母の加護を受けて参りました。そして,マリアは決して揺らぐことのない愛を持って,この寄託の世話をしてこられたことをよく示されました。

 マリア様は日本の教会を守りました。

 従って,教皇聖下が,我々にこの困難な仕事と,この遠い国で聖下を代表する名誉を託したもうた時に我々が最初に考えたことは,彼女が完全な荒廃から守りたもうた教会と我々を,この良き母に捧げることでした。

 日本の教会はこのマリア様に捧げるということを決めました。
 だから,大浦天主堂のあそこに立っているマリア様に,最初の宣教師たち,最初の司教は日本を全部任せるとお願いしますということをいたしました。

 従って,この式典は聖寵の式典であります。さらにこの式典は,ここにおられる方々に代表される国民を守護する守護者のための保証となるでしょう。我々は我々のあらゆる希望をあなた方に託していますが,この日本のノートルダムはあなたのものです。

 長崎に行かれたら,どうぞ2つのマリア様をご覧になってください。階段のマリア様の後ろには,「日本の聖母,我らのために祈りたまえ」と書いております。
 私は大浦天主堂にいる間に,大浦天主堂から始まり,浦上の教会の歴史を含めて長崎教区の歴史を準備し始めていましたが,仙台に赴任ということでそれ以上できませんでした。非常にすばらしい歴史を持った教区だと今でも思っております。

    ※司教様チェック済み