年間第18主日主の変容ミサ説教
2006年8月6日
於:桜町教会
冒頭でも申しましたが,今日は日本教会においては平和旬間の週間にあたっておりますので,今回は今日の聖書の話ではなくて平和の話をさせてください。
昭和11年,昭和12年というのが,日本の歴史の転換期でありました。昭和11年に2.26事件というのがありまして,それを通して日本が大きく変わっていきます。実をいいますと私は昭和10年生まれですので,私が子供の頃,親たちがどんな話をしたのか,どういう気持ちで過ごしたのか,いつか話してみたいと思ったりもしましたが,今は亡くなっていてそれもかないません。今日の話は,歴史の勉強,学校の授業みたいになるのですが,お許しください。これを通して,平和という問題を考える材料を提供したいと思います。
昭和11年2月20日に,日本では総選挙が行われております。その結果,2大政党の政友会が民政党の前に完全に破れております。政友会は,「皇道派」と呼ばれる少し右翼の色彩が強い,軍部とのつながりが多い政党でした。民政党は,同じ軍部でも「統制派」と呼ばれるグループにつながりがありました。軍部の独走を抑制しようとする管理的な軍部の流れがありまして,それが「統制派」でした。皇道派と呼ばれる人たちは,面倒くさい政党政治とか意見が合わない民主主義とか,民意を代表する議会とかということより,天皇を親政として,天皇を中心として,日本が国際的な地位を早くかけ上ることを目指していました。このままでは遅れをとってしまうというあせりを覚えているグループとでもいえます。
昭和5年に「ロンドン軍縮条約」というのがありましたが,そのときに日本は軍縮ということに賛同いたします。しかし,皇道派,あるいは政友会の人たちは,日本が軍縮ということ,軍隊をこれ以上増大させないというこの路線には,あまり賛成しませんでした。ところが,民政党の人たちは,むしろ「国民の生活を安定させ,日本の国の生活が向上することによって,日本という国は世界的にも確固たる地位を得ることができる」というものの見方をしていて,「ロンドンの軍縮条約には全く賛成,これ以上軍備を拡大する必要はない」という路線をとっておりました。これが2月20日の選挙にあらわれて,民政党が勝ったのです。日本国民は,戦争拡大に反対,中国の内部に軍隊を次から次へと送ることににも反対であるという民意を表明しておりました。この時代まで反ファシズムという傾向が,日本人の中にとても強かったといえます。
でも皮肉なことに,その6日後,有名な2.26事件というのが起きてしまいます。私はこの2.26事件を,今みなさんにお話しする必要はないと思っております。聞きかじりでもいろいろ聞いておられることと思います。20名の現役将校が,87中隊を率い,1,500名が決起する。結果的には,政府の要人を射殺してしまうということになります。射殺された人たちというのは,いずれも軍縮派,すなわち軍拡反対の人たち,あるいはロンドンの条約に賛成である人たち,あるいは平和路線,平和外交を貫いていこうという人たちが大半でした。あるいはそれを推進しようとする天皇の側近でした。事件は3日で終わりましたが,この2.26事件をきっかけに日本は大きく右に旋回して参ります。
すぐ行われました5月7日の第69回特別議会では,斎藤隆夫という民政党の議員が政府を非常に激しく非難いたします。すなわち,軍部のやり方は良くないとということをはっきり言います。「今は中庸の政治がいるのである。軍部の独走を押さえないといけない」と「それから平和外交を展開しないといけない」と,こういうことを何度も何度も述べます。でも実際は,中庸を守るはずの統制派の人たちは殺されてしまって,その努力は後退してしまいます。天皇側近も,殺されたこともあり,それ以上強く発言しなくなるという状況になります。そこで勢いづいた別の流れというのは,「難しい国会とか難しい政党政治ではなくて,天皇親政のもとに一致して,日本国民は世界に向かって邁進しないといけない」との路線を打ち出した人たちでした。こうして「国策の基準」という議案を国会に提出します。その国策の議案というのは,中国に対してどのような軍備を,ソ連に対してどのような軍備を,アメリカに対してどのような軍備を,どのような形でそれを拡張することができるか。これらの国々と対等に外交していくためには,どのように5カ年計画を立てていかないといけないかといった議案でした。さきほど述べました斎藤隆夫は,その年の中央公論10月号で「軍部は無謀な国策を提供している」ということを強く述べております。
その中でたった一つの救いの道は,この軍部の独走を抑える人,いがみ合っている政党を一致させ協力させる力がある協力内閣を成立させることでした。このためにはみんなの信頼が非常に厚い,天皇の信頼も厚い,宇垣一成という人を推薦することでした。ところが,宇垣一成内閣は流産してしまいます。成立しませんでした。なぜかと申しますと,「天皇側近が逃げ腰であったこと,殺されたのを見てそれ以上の発言をしなくなっていること」,それから「いわゆる軍部の統制派,中庸を守ろうとする人たちが殺されたということもあり,彼らの力が後退してしまったこと」,「国民が強い日本ということを宣伝されたときに,何か信頼できるんじゃないか,力に信頼するというこの宣伝の前にすくんだかあるいはそれに魅惑された」というこの3つの要素が重なりまして,宇垣一成内閣は流産してしまいます。この内閣は弱腰内閣と映ったのです。これ以降,防波堤を失った川の流れのように,日本は戦争へと右へ右へと旋回していきます。たった一つのテロでした。でもその一つのテロが日本の行方を占ったのです。
すぐ,中国戦線拡大という方向に向かっていきます。日本は日支事変を一つの事件だと思っていました。でも中国は,これは戦争だと考えました。日本人の頭の中に,戦争が起きているとは思いませんでした。ただ局地的に何かの争いがある,このぐらいの意識だったと思われます。冒頭で言った,私が父と母と話したいと思ったのはこういうことでした。そのときにどういう意識があったのか聞きたいなと思いました。
初めに言いましたように歴史の授業みたいな話になりました。それでもそこからいくつかの反省点を引き出すことができます。考える材料を提供したいと思います。
まず第1点です。平和というのは,世界との協調の中にしかないということです。自分の国の繁栄だけを求めているときに平和はない。なによりも,平和を外交とする基本的な姿勢を持たないといけないということです。これは私たちも同じです。私たちの中に自分のことだけを考えているときに,平和はないのです。全体の中で全体をよくわかった上で,そしてなにができるかということを考える。これが平和だということです。
第2点,国民の生活の基盤とか向上を考えるより,国の発展を第一に考えたということです。私たちはそうではない。国の発展は大事である。でもその前に自分の生活を安定し,自分の精神的な生活,物質的な生活を豊かに生きる。こちらの方を大事にしないといけないということです。生活を大切にしない姿勢,ここが歴史の転換になったかなと思います。国が最初にきて個人が後に来るというものの見方をしてはいけません。「一人一人があって国がある」こういう見方をしないといけないということを教えております。
それから第3点,テロによって大きく展開した歴史というのを,私たちに考えさせてくれております。テロというのは,「相手を脅すことを通しながら自分の思いを貫いていく」こういう行為を指しております。考えて見ますと,私たちの中にも多くそれがあります。自分の思いを貫くために相手を脅して,そして相手を自分の思うとおりに操るのです。ここには平和は生まれてきません。私たちは教皇様と一緒に,平和については徹底した毅然たる姿勢を持たないといけません。たくさんの暴力を私たちは容認しております。子供への暴力,ドメスティックバイオレンス,女性への暴力,言葉による相手への鋭い暴力,イデオロギーの押しつけ,映像による暴力。私たちは今,暴力によって囲まれているような中で,やはり毅然として戦わないといけないといけません。
第4点,そして終わりです。私たちは,平和への意思表示をきちんとしないといけない。曖昧ではいけない。何かの形で必ず表現しないといけない。これは,今カトリック教会が信者に求めている姿勢です。自分の生活さえよければ,という意味ではありません。昨日,私は広島の平和行進に行って来ました。たくさんのことを考えさせてくれております。たとえば,京都教区は50人ぐらいの中学生がどこからか歩いて広場に来て,そして平和学習その他をしております。教区の取り組みとして,徹底して,次の世代に平和の思いを語り継いで行こうという意向がよく見えています。ただ何となく平和のためのお祈りをするのではなくて,どういう形で平和への意思表示を私たちができるか,これをやはり考えてみないといけないのではないでしょうか。日本の学校では平和教育とか平和学習がたくさん行われております。私たちも,教会内でそれをおろそかにはできません。
こういうことを一つ一つ丁寧に,一人一人の良心の中に育んでいったときに,世界の平和とか日本の国のあり方とか,こんなものが自ずと見えてくるのではないでしょうか。
※司教様チェック済み