三位一体の主日ミサ説教

2006年6月11日
  於:郡中教会

 三位一体の祝日ですので、三位と神の関係ということを話してみましょう。これは私達一つの教会にいる信徒達の関係でもあるのです。

 まず、父なる神のことです。「あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。」(申命記4章39〜40節)
 父なる神は全てのものの造り主であり、全てのものの上にあります。絶対の主人なのです。だから、私たちは「主」という表現をつかっております。
 ところが、これに不満をもつものが現れます。即ち天使と人間です。暴君のように私を支配する神を認めない、自分達こそ世界を支配する主人であるということを主張します。
 こうして、神様と人間の間に亀裂が生じます。ところが皮肉なことに、こういうことを人間が思い始めるとその瞬間に、瞬く間に人間が持っていた調和とか、つながりがなくなって、激しく戦うようになってしまいます。神様を捨てた、認めなくなったその時に人間は争うようになるということなのです。争いの世界というのは泥沼の世界を作り出していきます。
 旧約聖書を読んでいきますと、男は女を虐げます、隷属させようとします。女は男に復讐を誓います。大人は子供を虐待します。子供は大きくなって大人に反抗します。人間は自然を乱します。こうして自然は人間に逆らい、たくさんの災害がおこります。人は表面だけをつくろって平和のような顔をしております。でも、心の奥底では侮辱と憎しみで一杯なのです。
 いつのまにか、人にとっては物が神様になり飽くなく物を求めるという習性が身に付いてまいります。こうして私たちの生きている世界は泥沼となってまいります。それもこれも人間が主人である神様を認めないというところから始まっております。悪いことに人間はこういう状況になってもなお神様を認めないことです。

 この時、神様は人間が及びもつかないことを考えます。
 父なる神様はご自分が一番愛している息子、御子イエスをこの世の泥沼の中に送ります。どうしようもなく反抗して、言いたい放題の文句を並べたてている子供がいれば、親達も先生達もげんこつでもくらわせたり、刑務所にでも送ってしまおう、少年院にでも送ってしまおうと考えます、今死刑の年齢を下げてしまおうと考える人達もいます、これらが人間の常識です。
 ところが、神様が考えられたことは、「こういう子供がいるからこそ自分が一番大事にしている、御子をこの世に遣わしましょう」ということなのです。人間はそれがよく分かりません。
 ところで、こういう父親の考えを受け入れた息子はたいしたものといえます。ろくなことしか期待できないのを承知の上でこの世にやってまいります。そして、御父が望むことをやりとげます。それは、父と子との深い信頼関係がないと分かりません。父と子との関わりというのは強い信頼関係に基ずいています。子は父を深く信頼しております、これを愛と言っております。どうしようもない人間は、こういう神様の思いがどうしても分かりません。こうして、結局送られた御子主イエスを殺してしまいます。聖書の話はこのように続きます。イエスは十字架に付けられて、自ら人々の苦しみを背負います。その姿を見て人間は「神は馬鹿だ」と嘲笑います。悲しいことに人はそういう生き方をなかなか理解しません。自分に得にならないことをする、そんな愛なんて不必要だと考えます。
 殺された御子は、「人は愛し合わなければいけない」ということを、最後の晩餐では、くり返しくり返し話します。自分の友の足を洗わないといけないこと、仕えること、報いを求めない奉仕の心が大事なのだということを教えます。人間は、そんな馬鹿が考える人生観は受け入れることは出来ないと拒絶します。なかなか神様の論理とか考え方が人には理解されません。
 こういう行き詰まった中で、神様はどういうふうに考えるのでしょう。私達と違ったものの見方で、私達に新しい生き方を教えてくれます。おたがいに愛し合い、おたがいの足を洗い、おたがいを慰めあい励ましあって生きるためには、あなたの力では出来ないよということから教えを始めます、ついで「私があたらしい霊の力、私の聖霊、父と子が愛し合ったその霊を人間に送る」と伝えます。送られる霊を通して人は愛することが出来るようになると教えるのです。
 聖霊は人の心を燃やして、御子イエスが十字架にかけられたという意味をはっきりとわからせてくださいます。この愛を実践することで世界が救われることを教えてくれます。

 父と子と聖霊の交わりというのは、私達の教会の中の交わりをよくあらわしております。
 御父が世界を創造し、たえず新しい命に生まれ代えて下さるように、私達もこの教会の中で創造する力を持たないといけません。旧態依然の、千年一日のような教会を守っていてはいけません。ほとばしるような新しいなにかが生まれてこないといけません。これが教会だということです。

 今、新しい時代を迎えようとしております。私達の旧態依然の教会ではなく、新しい教会づくりを目指して歩んで行かなければなりません。父なる神様の教会、活気あふれる教会であるためには現代社会に向かって、私達が愛し合っているという姿をはっきりと見せないといけません。憎みあったり、悪口を言ったり、足を引っ張り合うなどの教会は神様の姿を映し出していません。
 郡中教会の中で、愛媛県の教会の中で、高松の教区の中でお互いが愛し合っているという姿を現代社会に見せないといけません。
 この愛し合うとは、単に好きとか嫌いではない愛のことです。愚かなことを承知の上で愛するのです。無私無欲、相手に奉仕する愛である必要があります。私達の教会の共同体を見る人々に私達がどんなに愛し合っているかをはっきり見えるように努めなかればなりません。そのためには自然のものの見方から超自然のものの見方に変る必要があります。この超自然が出来るためには聖霊の働きが必要です。自然のままだったら、好きな人とべったりくっ付いていることが愛だと思ってしまいます。超自然の愛、聖霊が教える超自然の愛は、好きとか嫌いとかを抜きにして神様のお望みになる愛を築くということを表わしております。
 創造する力とか、積極的に現代社会に挑戦していく姿とか、そのために互いに協力し、励まし合っている姿、これが教会なのです。
 今日、今から堅信式があります。堅信の式を通して人として、キリスト者としての正しい生き方を全うする、上からの力をお願いしましょう。
 これを通して、この郡中教会の新生が始まります。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています