聖霊降臨の主日ミサ説教

2006年6月4日
  於:桜町教会

 2週間前の教皇大使訪問の際にした同じ話しをすることで,今日の話を始めさせて下さい。復活節の間,ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面が,少なくとも最後の3週間は続けて読まれております。ヨハネの13章から16章までです。平行して使徒言行録が読まれております。それは43カ所にも上ります。使徒言行録を通して当時の異教徒の社会,ヘレニズムの社会の中に教会が大きく羽ばたいていく様子を見せてくれています。それと平行してヨハネの福音書は,特に最後の晩餐の場面を通しながら,教会は内的生活を充実させないといけないということを強調しています。この40日間,聖霊降臨祭を控えて外的に発展する教会と,内的に充実する教会の2つの側面を考えさせていて,これこそ教会の大事な課題であるということをこの典礼暦年を通して教えています。今日は,聖霊降臨祭,教会の発足の日にあたっています。内的生活だけを充実させることは片手落ちですし,外的な仕事だけをするときにも欠陥がある。この2つが調和していくところに教会があります。この季節の典礼は,私たちに教会とは何かを教えてくれております。

 さてヨハネの福音書が書かれた当時,1世紀の終わりの教会とはどんな教会だったのでしょう。これが理解できてヨハネの福音書にふれますと,いろいろなことに気づいて参ります。当時の最大の問題というのは,ユダヤ人キリスト教徒たちが,他の宗教からキリスト教に改宗してくる人たちをどのように受け入れるかということでした。これは初代教会に深刻な分裂を起こしました。教会会議を開いて,1つの路線を決めないといけない状況にさえなりました。そして,決めた後も激しい分裂を起こし,内部がもめる原因となりました。こういうことを念頭において最後の晩餐の場面を読んでいきますと,いろいろなことが分かって参ります。
 例えば,イエス様は弟子の足を洗ったと伝えています。でもその裏には,足を洗ったという事実を通して,ヨハネが当時の教会に伝えたいメッセージがあるのです。それは何だったのでしょう。イエス様は謙虚な姿を示しております。これを通してヨハネが伝えたいメッセージがあるのです。謙虚な姿がなければ,その当時分裂していた教会に一致を取り戻すことができないと述べているのです。イエス様の行為を通して,教会の分裂を避けるために一人一人が謙虚になることが大事だということをヨハネは教えているのです。このようにしてヨハネの福音書が見えてきます。洗礼の水があり,聖体のパンがあり,そして最後の晩餐で愛しなさいという教えです。その裏には,洗礼に生きない,聖体のパンを理解しない教会に対しての大きな警告を発しているのです。イエス様の行為を通して,相手を威圧するのではなく,相手の足を洗う,こういう行為をしないといけないと戒めているのです。
 さらに「愛し合いなさい」ということばが何回繰り返されることでしょう。「私があなた方を愛したようにあなた方も愛し合いなさい」と,「私が足を洗ったように足を洗いなさい」と。単なるきれいな文章の連続ではありません。分裂を目の前にしているからこそ,何度も何度も「互いに愛し合いなさい」とヨハネが伝えているのです。自分たちの好き嫌いの感情で愛するのではなく,キリストにおいて愛しなさい,主において愛しなさい,こういうことを伝えております。「主の名の下において尊敬し,認めあい愛する,これを学ばないといけない」ということを伝えております。今の教皇ベネディクト16世は,こんなに混迷した現代社会の中にあって,もはや取り返しがつかないくらい混沌としている現代は愛によらないでは救いがないというのです。彼の最初の回勅は「神は愛である」という題名です。すなわち教皇様が言いたいのは「現代を救うのは,もうキリストにおける愛しかないのだ」ということです。私たちは教会にあって愛するとは何かということをやはり真剣に考えないといけません。

 私は,東京の山谷でボランティアの活動を長年神学生と一緒にやってきました。プロテスタントの牧師さんが経営するマリア食堂で,皿洗いをしたり食事の準備をしたりという奉仕活動でした。一晩泊まって,また翌日神学校に戻って授業をするという生活でした。ある日のこと,食事を作って食べさせて後,彼らが出て行ってなんと食堂の壁に向かって全員が放尿するという場面を見まして,私も腹が立ってなりませんでした。なんということをするんだと力んだところ,オーナーである牧師さんは「神父さん大丈夫だよ。水で流せばまた綺麗になるんだから」と私に言いました。私はまったく脱帽し,えらいなと思いました。でもこういうアガペ,こういう愛に至るためには,イエス様が約束したパラクレトス,聖霊がどうしても必要なのです。だから,最後の晩餐で「私はあなた方に聖霊を与える」と約束したのです。教会の発足にあたり,教会の現実をよく見て,聖霊を与えるという約束をなさいます。ヨハネの最後の晩餐は長い話の繰り返しですが,初代教会を頭に入れて読んでいけば,もっと意味がわかってくることと思います。
 聖霊は,弟子達の生き方の正しさを証明してくださるお方なのです。じたばたしたらいけないのです。自分が正しいとか,自分が愛しているんだとか,私は私の正義を自ら証明するのだと力む必要がありません。神様がしてくださるのだから,じたばたをやめることです。神様の手の中に自分を置くことが,もっと大事なんだよというメッセージが「聖霊をあなたに送ります」ということばの中に含まれています。損得を考えないあの愚かな十字架のイエス様を受け入れる,それがアガペ,愛なのです。ベネディクト16世がその第2部で「愛は愚かなものを受け入れる」ということを強調して述べています。
 同時にパラクレトス,聖霊というのは慰めの主です。今歌いました「慰めを与えてくださるお方」です。復活した場面でイエス様が弟子達に現れるとき,あなた方に平和と何度繰り返すことでしょう。三度は平和と呼びかけています。私たちはこの生を生きている中で,どうしても苦しみが伴っています。大きいか小さいか,肉体的なことか精神的なことか,苦しみから逃げられません。どうしても受けないといけない。その中でたった一つ,主が慰めてくださると信じることです。主において自分に与えられたその苦しみを受け取っていかないといけない。これがアガペ,愛なのです。アガペは,好きだとか嫌いだとか,好きになったとか嫌いになったとかという感情とずいぶん違う問題提起をしてくれております。私たちは自分で自分を証しするものを持っておりません。私たちは裸なのです。いくら証明しようとしても悪く解釈されたり,あるいはうまく表現できなかったりすることの連続です。でも神様が証ししてくれる,こういう視点に立ったら,自分の生活の中に一本筋がきちんと通っていくようになります。人がどう言っても,自分の生き方というのを全うして参ります。それは聖霊が私の正しさを証しして下さると信じているからです。
 聖霊によって慰められ励まされた人は,人を徹底して愛するということを学びます。言葉ではありません。とっても大きな深い愛に生きることができます。このようにして聖霊は教会の一致を保つことができます。最後の晩餐の中で,弟子達に教会の一致が大事だと,イエス様はこんこんと諭します。弟子達に主が現れ,あなた方に教会を守るために聖霊を与える,教会の指導者として,聖霊の導きのもとに働きなさいと命令します。ここでヨハネの福音書は締めくくられます。受けた教えを保ち,新しい動きや考え方が起こっても,その中に何がよいかを判断する力が与えられる。聖霊の賜物,賢明な判断,そして何事にも動揺することのない確固たる不動の精神が,賜物として弟子達に,教会の指導者に与えられるのです。

 もう一度戻りましょう。初代教会では,ユダヤ人でない人を受け入れるというのが,どんなに大きな問題であったかということです。そのときに大きな緊張がありました。そういう中であのヨハネの福音書があるということを私たちは理解することができます。それを克服するために当時の教会の指導者たちが強調したことは,聖霊によらなければこれらの問題は決して乗り越えることがない,という確信だったと思います。

 今日は聖霊降臨で教会の発足の日です。すなわち原点に戻りなさいよという日になっております。私たちはもう一度,愛するとは何か,兄弟であるとは何か,どんな教会を作りたいのか,こんな問題提起を一人一人がしていきながら,堅信の式に与り聖霊に満たされて喜びのうちに帰っていくようにいたしましょう。

    ※司教様チェック済