三本松ルルド祭ミサ説教

2006年5月28日
  於:三本松教会

 本日はマリア様の祝日をお祝いしておりますので,マリア様と関わりまして現代の女性の価値ということについて,お話しをさせてください。
 最近とみに教会においても,女性の大切さということが論議されております。実際教会を顧みますと,3分の2ぐらいは女性であるというのが,教会の実情ではないかなと思います。でもそれ以上に,現代は女性とは何であるかということが,非常に問題にされていると考えても良いと思います。
 カトリック教会は,良い意味でも悪い意味でも男性優位の社会であったことも否めません。女性がその下で抑圧されてしまったという考え方も,最近出てきております。フェミニズムの論調とかが時には激しさを増しております。今一番よく売れておりますのは「ダ・ヴィンチ・コード」という本ですが,その背景にはフェミニズム神学という考え方があります。作者のダン・ブラウン氏は,次のように教会の初期の姿を解説しております。すなわち,イエス・キリストは,教会を治め,発展する権限を自分が一番信頼しているマグダラのマリアに譲ろうとしたが,ペトロとその取り巻きの男性たちが,彼女を追い落としていったというのです。教会を徹底して男性社会へと変貌させていったのは彼らだというのです。その中で聖書そのものも書き直していったと,こういうようなことを言っております。だから今女性の特権を,あるいは女性の権利を復権させ,取り戻すことで教会が原点に戻ることができると考えています。女性を認めることを通して教会が刷新されると考えています。
 これは必ずしもダン・ブラウン氏が言っていることではありませんで,それ以前にいろいろな人が同じようなことを言っております。こういう考え方の裏には女性らしくとか,男性らしくという通説は後から作り上げられたものであり,後天的なものであるという人の考え方が根強く残っております。シモーヌ・ド・ボーヴォワール夫人,有名な実存主義の作家ですが,彼女の書いたものの中で「第二の性」という本があります。その中で女性らしさというのは作られた概念であって,その実そんなものはないのだと彼女が強調しております。今日マリア祭にあたりまして,「女性と男性とは本当に何も違っていないんでしょうか」という問題提起をさせてください。全く平等なものだと考えてみても良い。しかし,本当に全然違いがないのでしょうか。

 私は決定的な違いは,女性しかできないものといえば,身籠もることと産むことじゃないかなと思います。体の構造の違いということだけじゃなくて,身籠もり,産むという行為を通しながら,女性が女性としてのあるべき姿が見えてくるような気がしております。女性が身籠もっているとき自分では何もすることができません。どんな子になるのか,どんな子なのか,この子がどのような人生を送るのか全くわかりません。むしろ女性は,その瞬間に自分がするというより任せることしかできないということをわかって参ります。しかも仕方なしに任せるというよりは,喜んで期待して任せるという母親の心理状況が生まれて参ります。さらに,女性は子どもを産むときから自分の生活のリズムが変わって参ります。自然のリズムを大切にしないといけないということを嫌というほど味あわされます。こうして子供を持つことで,女性の生活のリズムが変わり,長く時間をかけて育むという意味がわかって参ります。たぶん,これは男性がよくわからない点ではないかなと思います。

 先ほど申しました女権拡張運動の限界は,この辺で見えて来ます。すなわち既成の男性社会の中に,女性が持つ今まで述べたような特色をかなぐり捨てて,男性社会の中に切り込んでいくときに女性そのものが傷つけられてしまわないかなというおそれです。ダメにならないかなというおそれがあります。現代日本でも,男女共同参画社会を作るとさかんにいわれております。あるいはジェンダーフリー教育を行うとか,単なる生理的なものだけを扱う性教育を施すとか,気をつけませんと女性そのものを傷つけるおそれがたくさんあると私には思われてなりません。
 すなわち,男性社会の中で女性の特色を殺してでも,競って生きる必要があるかどうかという根本的な質問になって参ります。むしろ,女性は産む性を体験するものとしていのちに関わること,人を育むこと,それを通しながら畏敬の念を持つこと,神様の手に任せること,忍耐して生きること,いのちを愛おしむこと,これらの特性が女性には自然に備わってきているだけに,これを最大限に発揮することが,現代の女性の大きな役割ではないかなと私には思われてなりません。
 現代社会は合理性とか競争社会とか効率性とか得点主義とか,これらが現代の様々な問題を作り出していることは私たちは良く存じております。年間3万人を超す自殺者が日本にいること,毎日報道される児童殺人事件のこと,拉致事件,誘拐事件,もう言えばきりがありません。今こそ女性が声を上げて,いのちを大事にする社会ということを言わなければいけないという風に思われます。

 ここまできますと,マリア様の姿が私たちの目の前に浮き彫りにされてきます。イエスという御子を産んだそのときから,彼女は御旨のままにという生き方をいたします。自分にわからないその子の人生をじっと見つめて,彼女は思いめぐらしたと言われております。戦う男性社会の中にあって新しい教会の発足が聖霊降臨を通して行われます。その発足に彼女は参画いたします。男性首脳陣を励まして,助けて,教会の本来あるべき姿というのを男性たちに絶えず示唆して参ります。こうして,第2バチカン公会議はマリアを「教会の母」と定義いたしました。ちょうどこの意味だと思います。こう考えますと私たちのマリア信心というのは,女性への限りない信頼と期待を表しているものというふうにとらえて良いでしょうか。もしも,私たちのカトリック教会の中で本当に教会の婦人たちが自分の性に目覚めて,自分の本当にかけるものが何であるかということをはっきり意識したときに,教会は中から揺さぶられてキリストの福音に近い姿にかわっていくのではないかと,こんな希望をこめながら今日の話をいたしました。

    ※司教様チェック済