佐藤孝子さん追悼ミサ説教

2006年4月23日
  於:秋田羽後本荘(佐藤邸)

 昨日、佐藤稔さんにお宮へ案内されまして、この部落には招魂社があるということを聞きました。招魂社があるということは、ここは官軍の土地だったのかな、国のために亡くなった人の多くを祭っている土地なのかな、とこんな想像をいたしました。
 では、招魂社とはなんでしょう。国のために戦って亡くなった人々の魂を鎮めること、招魂社にそれを迎えて神様の列に繋がった人として、わたしたちが参拝すること、これを祀るという言葉で使っております。神道でいう「祀る」とは、祖先たちを神様として祀る、このような信仰がこの土地にあるのだろうと思います。
 カトリック教会では死者のために「祈る」という言葉を使っております。即ち亡くなった人は迷いの中にあるかもしれないので、神の懐に戻るように「祈る」というふうに解釈しております。
 けれども、最近私はこれに関しても異論を持っておりまして、子孫である私たちがこんなに苦労して生きてきて、こんな素晴らしい世界を作ってきた、その先輩のために祈ってあげて、そして助けてあげる、といった考え方には、なんかおこがましいという気持になります。あまり宗教的ではないような表現だと思います。
 仏教では供養してとか、献花するとか、という言葉を使います。即ち魂の安らぎをもらうために個人を思い出して供養をする。ここにも何か先達が成仏できないでウロウロして落ち着かないから、私が何かお祈りをして助けてあげようというような気がしております。どちらにしても私たちが生きているこの社会、たぶん皆さんが生きているこの秋田のこの土地に、気付くか気付かないか別にしまして深い宗教心のようなものが共通してあると言えるような気がします。
 これについて、私たちはどう考えればいいのでしょう。

 いくつかのことが共通して言えます。
 まず、死者は私たちの先祖であること。祖先は大事にしなければいけないということ、後輩である私たちは祖先のために何かをすることを通して祖先と深く繋がるという考え方を私たちはみんな持っているということ、そのために今日はこうして集まっております。
 祖先を尊敬するということは必ずしも、何か遠くにいる祖先という意味とか、私たちが助けてあげている祖先ということよりも、私たちの前に生きて、そして、今は天にあって私たちを見守って助けてくれている祖先だということです、だから祖先を祀るとか、祖先を供養するとか、こういう言葉の中には、むしろ私たちは祖先がこうした社会を作っていってくれたことへの感謝するという意味を表しているのではないかなと思います。、今ここに私たちと一緒に、この社会を作っていくために生きてきたこの人たちがあって、彼らにに感謝する集いが追悼だということです。
 今日は佐藤孝子さんの十周忌をおこなっております。佐藤孝子さんが私たちに与えてくれているメッセージがある。一人一人彼女と出会った、そして彼女と生を共にした、その中から彼女が今生きている私に呼びかけているメッセージとは何であるか、今日このミサの中で思い出す必要があるということです。

 日本の文化というのは、多元宗教の文化です。いろいろな宗教が入っている、いろいろなものを受け止める寛容さがあります。皆さんのお墓に参りましたが、仏式の墓がずらっと千百年分あって、そして一番最後に佐藤孝子さんと稔さんの、十字架のしるしがついたお墓があります。どんな気持ちで皆さんそれを見ておられることでしょう。
 家族の中で一番最初にカトリック教会に行って洗礼を受けたのは私でした。私の兄は日本基督教団の牧師をしております。それぞれ違った宗教の中に生きております。でも、何か共通した物を持っている、それは私たち日本人の心の中に深く浸透している祖先の崇拝と、祖先を通して私たちが今生きているという現実、こんなことがあるんではないかなという気がします。
 私たちの前に生きた祖先は、私たちに呼びかけております。私たちにメッセージを残しております。生きていくための力を与えております。今日のごミサで、彼女のために祈るということは、このごミサの中から彼女が私たちに何かを語りかけているメッセージを聞きとることです。
 最近よく言われます。「あなた方宗教家はもっと死ということ、生ということ、これを単刀直入に現代の人々に伝えないといけない」と。私は自らに恥じることが多々あります。今から続けられるミサの中でご一緒にお祈りいたしましょう。
 亡くなった孝子さんのために、生きている私たちのために、そして生きていくであろう私たちの次の世代の子供達のためにお祈りいたしましょう。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています