聖土曜日復活徹夜祭ミサ説教
2006年4月15日
於:桜町教会
昨日は苦しみとか不幸という連鎖があって、それを断ち切るのが難しいという話を私はいたしました。それでは断ち切るためにはどうすればいいのでしょう。
人間の力ではどうにもなりません。どうしても人間の力でしたら、恨み辛み、現実の生活の中での心配ばっかりに気を取られてしまう、そうではないでしょうか。
苦しみが恵みであるなんていうのが分かるためには、どれほどの苦しみを経なければならないでしょうか。それに到るまでに、どれほどの涙と失望があるでしょう。最大の恵みというのは、そういう苦しみを経ながら自分の限界を知って謙虚になり、頭を下げることを知ることになる、これだと思います。これこそ、宗教心の始まりです。
宗教を信じている者にありがちな恵まれた状況の中で、祈り三昧といったことと随分離れている、宗教心の始まりだと言えます。
私は日本で働く外国の人が、どんなに孤独であるか、この数年間で少し垣間見たような気がしております。でも、その人たちが自分達の苦しみを通しながら、本物の祈り、本物の宗教を持っているということに感動させられます。苦しみや、不幸の連鎖の中から叫びを上げている人達だからです。
自分自身が置かれている立場を理解すること、それを通して救いを求める謙虚な生き方をすること、これが宗教の本質です。今日は長い祈りと、長い典礼がありますのでこれ以上の話は進めたくありません。
でも、この一週間、私たちはキリストの受難、十字架の死、これを黙想してまいりました。これこそ復活に到るための必要な条件なのです。
ローソクが灯され、光でいっぱいの典礼を今祝っております。しかし、火を灯す前に、先ず暗闇を私たちは体験しました。真っ暗闇の中から光が灯されました。苦しみとか、罪とか、過ちとか、失敗を通して、光がはじめて見えてきます。
聖アウグスティヌスがいう「オー・フェリックス・クルパ、なんと幸せな罪よ」という叫び声がわかるのです。
今日、この光を見つめて自分達の生涯に起こったことをしっかりと見つめていくようにいたしましょう。
そして、それに感謝できる心を持っているなら頭を深くたれましょう。そこに到っていないのなら、光り輝く十字架をしっかりと見つめるようにいたしましょう。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています