聖金曜日ミサ説教
2006年4月14日
於:桜町教会
本日は短い説教をという風に典礼指針に書かれておりますが,ほんの少し話をするのを許して下さい。というのは明日の話とつながって考えていきたいので,少しだけ忍耐して聞いて下さい。私が若かった頃,司祭になったばかりの頃に体験したことを通しながら,十字架というのは何かということを,体験した出来事を通してお話ししたいと思います。
青年司祭であった頃,私はある家庭の人と親しい付き合いをしておりました。司祭になってまだ3年目ぐらいでした。高校を出たばかりのお嬢さんと最初に知り合いまして,その家庭を訪れたのがきっかけでした。その家は酒屋さんでして,その年にお父さんが癌で倒れてしまいました。昔風の造りの家で土間がとても冷たくて,店を切り盛りしていたお母さんはリューマチにかかり歩行がままならなくなってしまいました。高校を出たばかりの18才のお嬢さんが,1人で店を切り盛りして,更にお父さんお母さんの面倒を見るということになってしまいました。私はそのころ工業高等専門学校で教鞭をとっておりました。3年生の担任をしていましたので,毎日2人ずつ男子の学生をその店にお手伝いに送りました。というのは,酒屋さんというのは瓶を運んだりするので重労働だったからです。重いものを運ばないといけないので男子学生を送りました。そのうちにお父さんが亡くなりまして,お母さんとその若い娘さん2人の生活になりました。
その頃,教会の青年会の活動を世話しておりましたので,青年会のグループのミーティングはその店の2階で行って,彼女も店で番をしながらミーティングにあずかれるとこういうことをしたり,青年会で彼女の店をみんなで盛り立てていこうといったことを真剣にしていました。彼女には1人お姉さんがいまして,お医者さんになって結婚したのですが,事情があって精神的に悩み疲れ果て,ボロボロになってまた家に戻ってきました。彼女の1人の子供は旦那さんがひきとって,彼女が1人で帰ってきました。精神的に病んだ娘さんとリューマチで動けないお母さんと女性3人が生活することになりました。私はまだ若く,ことをよくわかりませんでした。しかし,ただ,不幸せの連鎖というのはなかなか断ち切れないということを理解しました。一つ不幸せが起こると次から次と起こって,どこで断ち切ることができるだろうかなとこんな思いをたくさん持っておりました。
お姉さんが今度は癌にかかり,家の中で暴れるようになってしまいました。ある真夜中,妹さんから電話で呼び出され,お姉さんの調子が悪いがどこかひきとってくれる病院はないかという頼みを受けました。幸いそのときに私は聖ヨハネ病院のシスター方と知り合いになっていましたので,真夜中だったのですが修道院に電話を入れましたら,今すぐ連れてきなさいということでしたので,私は真夜中に車で病院まで連れて行って彼女を入院させました。不思議なことに,彼女が危篤になったときに実に多くの人が病室にやって参りました。それまでは誰もいなかったんですけど,最後になったらたくさんの人がやってくる。神父さんやシスターたちがやってきて,亡くなろうとする彼女の耳元で「天国は近いですよ」とか「お祈りしましょう」とかいろいろ言っている。私は静かにさせてあげればいいのにと,そのとき若さからくる正義感にかられて,非常に腹が立ちました。私はその部屋を出て行き,おばあちゃんが1人で寝ている家に行きまして,おばあちゃんに「もう最後だよ」と伝えました。私は帰るすべがないので,おばあちゃんの隣にごろ寝をしてその夜を過ごしました。朝方近くになって電話があり,死んだという知らせがありました。私はおばあちゃんに「亡くなったよ」と言いますと,おばあちゃんは安心したのかいびきをかいて寝始めました。私もそれから彼女の側で軽く寝まして,朝になって起きてまた自分の学校に授業がありますので戻って行きました。
長々と私の最初の体験談を話しました。そのときから思い続けることは,一度起こる苦しみを断ち切るためには何がいるのだろうかということでした。それが後の司祭生活の一番最初のそして一番大きな疑問となりました。同時に全く無力である自分というのを,嫌というほど味わされた司祭生活の体験でした。とても良かったと思います。それから後,ああ私ではない,何か別の大きな力を通してでしか苦しみというのは理解できないのだということを,私に分からせてくださった,その端緒ではなかったかなと思います。
もう一つ思ったことがあります。それは人に苦しみを与えることはどんなに罪深いかということです。というのは一つの苦しみの連鎖は次から次につながっていて,いつどこで断ち切るかわからない位,その人もその家族も苦しみに陥れるということなのです。こういうことを考えますと,関わる中で相手への深い理解,深い尊敬,こういうものを持たないといけないということを分からせてくれたことです。
明日この話の続きとして,「私たちの愛する主イエス」というテーマについてお話しができるとうれしいと思っております。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています