聖木曜日ミサ説教

2006年4月13日
  於:桜町教会

 今年の一月,日本の殉教者の列福のことで,バチカンの国務長官でありますソダーノ枢機卿のところに参りました。そのときに手渡されたのが教皇ベネディクト16世の最初の回勅「神は愛」でして,刷り上がったばかりのものをいただきました。今日はこの回勅について皆さんと分かち合いたいと思います。

 この回勅は2部に分かれております。第1部では,愛とは何かについて述べておりまして,第2部ではその愛の実行について述べております。
 第1部の理論的な説明の部分で,日本語で言うこの「愛」という言葉を,教皇様は3つのギリシャ語で分けて説明しております。その第1番目はギリシャ語で「エロス」という単語で,エロティック等という言葉が使われているその原語になっております。すなわち人間は動物的な本能,あるいは動物としての本能的な愛を持っているということです。多分に自己中心的な愛ですが,この愛は人間にとってエネルギーを作り出す原因であり,何かを創造していく素晴らしい力の原動力となります。教皇様はエロスは決して悪いものではないということ主張しております。実際,このエロスなしには社会の進歩はないということを断言しています。
 2つめはこの愛という言葉を,ギリシャ語の「フィーリア」という言葉を使って説明しております。自然的な愛情とでも申しましょう。男女が好きになったり,愛し合ったり,親が子どもを思う肉親の愛だとか,友情に支えられたり励まされる人間愛だとか,こういう事をさしてフィーリアという言葉で説明しております。実際,私たちはこのフィーリアという愛を通しまして,支えられ,励まされ,生きていて良かったなという喜びと実感を持つに至ります。
 さらに3つ目の言葉を「アガペー」というギリシャ語を使って説明しております。英語でチャリティーという風に訳しております。先月私は台湾に行きましたが,そこで「キリスト教と東洋の宗教との対話」というテーマでシンポジウムが開かれました。台湾では「アガペー・チャリティー」という言葉を,「仁」と訳しておりました。「仁」と訳すとどちらかといえば,あわれみ深いとかあるいは儒教的な感じで受け止められます。日本の「愛」という言葉を中国では使わなかったのかなと思いました。同じようにキリシタン時代は「愛」という言葉は何か神様の愛を連想させるにはちょっと遠い,むしろフィーリアという感じがすると思われたので,それを「ご大切」というふうに訳しました。現代の日本語では3つの言葉を全部愛という表現で表しておりまして,考えがこんがらがる恐れがあります。
 このアガペーというギリシャ語は,教皇様によると単に好きになったもの同士が愛しているというのとは違う愛の姿を示しております。神様から注がれる恵みとしての愛と,このぐらいの意味合いで考えています。好きとか嫌いとか,友情だとか,自分の仲間だとか,こういうものを乗り越えた愛情のこと,これをアガペーと言っております。実際,これは神様が与えてくだされなければ,人間が一人で会得することは決してないということなのです。だから,アガペーは恵みと表現してよいのかもしれません。あるいはアガペーを無私の愛と申しましょう。または,十字架で表される愚かな愛とでも申しましょう。これが第1部の理論的な説明でして,第2部ではアガペーに生きるキリスト者としての生き方ということに言及しております。

 カトリック教会は,2000年間常にその時代の要求に応え,社会福祉の業を日々の活動を通して行って参りました。ただし,これらの愛は決してフィーリアの愛ではありません。アガペー,神様の恵みとしてとらえた愛の業と考えてきました。そして現在一番問題にされるのは,あるいは一人一人の生き方に問われているのは,「アガペーに生きる」ことにつきると教皇様は結論づけています。この回勅に言及されてはいませんが,この教皇様は,就任前から,そして就任してからも一貫して口にしていること,それは現代とは何かという問いかけです。彼は,現代はシンクレティズム,宗教多元主義の時代,あるいは混沌たるカオスの時代,価値観の定まらない時代だという風に定義しております。別の表現を使いますと底なし沼のようにすべてを吸い取って,立ち上がれないようにしていく時代,これが現代であると述べているのです。これは就任前の葬儀の時の話でも,就任してから最初の説教でも,それからこの間のドイツのケルンの青年大会の時も一貫して話されているテーマです。
 実際,バチカンの機関誌であるオッセルバトーレ・ロマーノ誌を読みますと,彼は絶えずこの問題に触れているということを私たちは気付きます。混沌とした中で価値観が定まらず難しい時代であるからこそ,今一番大切なのは,もう一度「アガペー,無私の愛に生きる」ことだということを,彼はこの回勅で言いたいのです。混沌たる相対主義の時代におりますと,力で征服しようとする独裁的な見方が現れたり,適当な判断力がないままある人についていったりするという現象が起きてしまいます。あるいは原理主義が台頭して,社会の現実に飽き足らない人たちを,ぐいぐいと引っ張っていく恐ろしさもあります。
 教皇様はこの回勅で,混迷し分裂している現代社会を復活させ,一致へと向かわせ,一人一人の人間が尊厳を持って生きることができるには,アガペーしかないと言っているのです。私も全く同感です。もはやこの時代は理論闘争をしたり,ある大きな勢力で圧倒したりすることではなくて,愛し合うという事から始めてこの世界の闇から立ち上がることができるのです。教皇様と共に,私たちが世界に訴えなければならないメッセージです。しかもこの愛は「アガペー」の愛です。好きなもの同士が愛していると言っているのとは違う,神が与えてくださった愛なのです。受け入れない人たちを含めての愛をさしております。これができるためには恵みとしてのアガペー,これを信じないといけません。私たちの力で愛することができるのではない。神様の恵みとして受け止めたときに,この愛の意味が深くわかるのです。

 今日の聖木曜日のミサ,そこには愛の賛歌があります。イエス様は弟子達の足を洗う愛を示しております。明日はイエス様が十字架につけられる愛を示してくれます。この「アガペー,無私の愛」。これを深く黙想するミサにいたしましょう。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています