聖香油ミサ説教
2006年4月12日
於:桜町教会
司祭の日にあたっておりますので,今日の私の話は司祭に向けて話をいたします。列席の信者さんたちに向けては特に話しておりません。それをご了承下さい。だから説教台でなくてここ(司教席、カテドラル)から話をする事にいたします。
今日のミサ式文のルブリカには,次のように言われております。「聖香油のミサは司教を囲む司祭の一致を表すべきものですから,いつも共同司式で行われます。」まず最初に今日の御ミサの中で,司教と司祭の関わりについて考察させてください。司教はイエス・キリストの弟子達の按手によって,イエス・キリストの大祭司とつながって参ります。同じように司教の按手によって,司祭は司教の祭司職に与ります。司祭である皆さんは司教の祭司職に与っているものであって,自分だけが司祭であるということはあり得ません。従って司教と司祭という関わりは,秘跡ということを通して深く結ばれています。ここで一つ言えますことは,私たちの結びつきというのは単なる人間の好みによって結ばれるものではない。自分が好きだとか嫌いだとかいう絆によって結ばれること以上に,秘跡によって結ばれる,イエス・キリストによって結ばれている、この視点を忘れることはできません。すなわち,私たち司教と司祭の関わりの中に,そこに神の手があります。単に人間の目だけで見ていたら理解できません。司教は司祭の中に,そこに神の手を見ないといけません。司祭は司教の中に神の手を見ないといけません。これが今日の司教と司祭との関わりという意味を持っております。
それでは,司祭同士の関わりというのは何でしょう。司教の按手に続きまして,司祭たちも助祭の上に按手をします。今日の聖香油ミサの中で,聖香油に向けて司祭たちも司教と一緒に按手をします。どういう意味でしょうか。神学的には2つに分かれております。この司祭の按手は,司教が行う秘跡の延長であると考える人たちと,一致の印であると主張する人たちと,この2つに分かれております。まだ議論の余地があるでしょう。でも少なくともこの按手を通して,司祭間の交わりは表明されていなければいけないということは言えると思います。司祭間の交わりというのは,現在教会において特に強調されている点です。司祭が一人ではいけないということ,これを教会は強調しております。そしてそこにも秘跡的な意味合いをもって、すなわち司教との交わりの中で叙階されたものとして司祭は交わっているのです。その中で,単に人間の好みで交わってはいけません。この人が好きだとか嫌いだとかいう形で司祭の交わりをしてはいけないということです。人間の目だけで見てはいけない,ここに神の手がある、こういう視点が大事な点となってまいります。
こういう中でさらに話を進めていきましょう。従順という問題を考えてみましょう。従順には2つがあります。個人のもの「パーソナル」と、それから共同体的なもの「コムニカティーブ」という2つの従順があります。
「個人の従順」,これは命令されたことに対して異議があり,それに疑義を呈することが出来る従順です。それでも神の名によって命じられれば,最終的に司教に従うという従順です。従うまでの過程の中で,たくさんの議論、あるいは話し合いが必要でしょう。でも最終的にはこうだと言われたときに頭を下げる、これが個人の従順です。司祭の従順というのはこういうことを表しています。司教についても同じです。司教に任命されるまでいろんなことを言うことが出来る。でもこうと言われたら従っていく,それが私達カトリック教会の強みになっております。神の名によって言われたときに頭を下げる。もちろんそれが良心に反することを要求されたときには,従う義務は全くもってないと言っていいと思います。しかしその際にも,正しい良心を培うためには,常日頃「従う」という意味を理解していなければなりません。従順は急には出来ません。常日頃謙虚な生き方をしてないと,従順はとても難しいものとなります。
2つ目です。「共同の従順」ということも最近言われてきている命題です。共同責任というのが強調されてきております。共同で行っていくと,共同で定めたことは自分は無関係なのでそんなことはしないというのは従順ではありません。共同で決めるまでいろいろと議論するでしょう,話し合うでしょう。でもその決めたことには頭を下げてやってみようという,これが従順になってまいります。共同で決めたことに司教の決断が入れば,従うという心構えが必要になってまいります。
今話した3つの項目について,いずれも言えることは,「共同」そして「神の名についての深い交わり」,ということが特徴とされております。
今から高松教区についてお話ししてまいりたいと思います。高松教区は,司祭評議会の決議を通しまして,「協力宣教司牧」へとシフトを変えております。それは単に司祭不足だからとかいう意味ではありません。もっと教会論的な意味をもっております。また単なる司教の思いつきでも決してありません。まず秘跡的な交わりを理解した上で,司教と司祭の交わり,司祭同士の交わりということを理解した上で,司祭団が協力して共同で福音宣教に従事するという,教会の考え方に従っています。一人で一つの教会を司牧し続けるのは確かに大変なことでしょう。それよりも複数で知恵を出し合って,お互いを人格者として尊敬しあって教会を発展させる方が,効率的ですし、教会論的です。ただ,助け合うというよりは一歩進んで,仕事と祈りをともに分かち合いながら,神の国の実現に向けて歩むという意志表示が「協力宣教司牧」です。私達司祭団の交わりというのは言葉ではありません。実際にこういう目に見える形で前進させたいと、今高松教区は考えております。
この司祭団に信徒を加えることで,知恵というのはもっと広がっていきます。また協力して働くことで,信徒と司祭の一致が強く結ばれてまいります。バチカン公会議が信徒の教会ということを打ち出しているということを,決して忘れることは出来ません。司祭が自分のやり方でやるのだという考え方は,今高松教区は同意しておりません。最初に述べました司祭団の秘跡に近い交わりというのは,この「協力宣教司牧」の中に具体的な形として実現させたいと,司教である私は思っています。同様に司祭評議会を通して決定したことに従う「共同体的従順」という問題も関わっております。自分の好みで「協力宣教司牧」が合うとか合わないとかではなくて,その方向をどのように実現していくかということをご一緒に考えていただきたい,と私は切に願います。もちろん新しいことですので,戸惑いもあります。先がよく見えません。それは当然だと思います。誰かがこんなこんなと説明してそして発足するものではなくて,協力してやろうという心構えから始まることが大切になってまいります。そしてそれを進める中に議論を交わして,方向性とか実施方法というのが見えてまいります。
私は,今日,司教への従順というのが誓われるに当たりまして,非常に具体的な提案を司祭の皆さんにいたしました。それは司教への従順というのは,「今行われようとしている高松教区の方針,『協力宣教司牧』への歩みを真摯に受け止め,それを実現していくという決断をしていただきたい。」という意思表示を今しております。
ただ単に何となく従順というのではないということを,司祭の皆さんに今日この場で伝えて話を終わりたいと思います。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています