枝の主日ミサ説教 イザヤ(50:4−7)

2006年4月9日
  於:桜町教会

 今日は枝の主日です。第一のイザヤの預言書に次のように書かれています。「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」イザヤは苦しむ僕ということを述べております。黙って屠所に引かれて行くイエス様の姿の前兆なのです。その人にピラトは「おまえは王なのか」と質問しています。「あなたが言っていることです。」とイエス様は答えます。即ち、王であるかどうかはあなたが判断しなさいということなのです。ピラトの前には裸にされ、気狂いのしるしである赤い服を着せられ、茨の冠をかぶらせられた奇妙な男が自分が王だと言ったということで訴えられて目の前にいます。ピラトは、「おまえは本当に王なのか」と質問するのが私にはよくわかります。何をされても、何の仕返しもしない王と称する男、この男をどのように考えたらいいのかピラトはわかりませんでした。
 今日行いました、あの棕櫚の葉の行列のなかで読まれました福音はもう一つ滑稽な場面を私たちに提供しております。子ロバに乗ってエルサレムに入場する王の姿です。なんて滑稽で漫画ティックなんでしょう。それでも福音者記者はまじめにその場面を描いています。ここでも問いかけがあります。こんな王様をあなたは信じるのか。

 本日の答唱詩篇は詩編の22章を全文載せております。この個所が下書きとなって福音書の中の受難の物語が構成されています。「犬がわたしを取り囲み、悪を行うものの群れが迫り、私の手足を引き裂いた。私はさらしものにされ、彼らは私を見つめる。彼らはわたしの衣を分け合い、着物をくじ引きにした。」これら一連の引用の中で一つの共通点が見えてきます。わたしたちが王だと信じている方は滑稽であり、惨めであり、人間の世界の常識を超えているお方だということです。 この方を王と認めるにはどのようにすればいいのでしょう。それはイザヤの言葉の中に次のように書かれています。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」即ち、惨めで滑稽なこのお方を主、王として認めるに到るには神様から舌と耳をもらう必要があるというのです。
 舌とは言葉のことです。耳とはそれを聞く能力のことです

 聖週間に入っています。わたしたちに、今必要なのは神様が与えてくださる言葉をしっかりと理解すること、そしてその言葉を深め味わうことです。この世界の常識ではわからない十字架の神秘、イエスの生き方をしっかりとわかるために、神様から言葉を理解する恵みを願うことに致しましょう。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています