キリスト教一致週間説教

2006年1月17日
  於:坂出ドミニコ会修道院聖堂

 キリスト教一致週間にあたりまして皆様に1991年バチカンの諸宗教対話省から発布された「対話と宣言」というこの文書を元にお話をさせてください。
 この文書は1964年に設立されました諸宗教対話のための教皇庁立評議会によるものです。これはバチカン公会議の中に諸宗教との対話が必要であるとカトリック教会が感じたために設立された評議会です。
 1984年にキリスト教以外の諸宗教の信者に対する教会の態度、「対話と宗教に関する若干の考察と指針」という小冊子が出版されました。これを土台にしまして「対話と宣言」という公式の文書がまとめられて発表されました。「対話」、そして「宣言」と二つの文章で成り立っている文書です。
 その冒頭の個所で、世界にあるすべての宗教が力を合わせて、協力してメッセージならびに行動を起こせば、世界を動かすほどの大きな力になるということを最初に述べています。
 ヨハネ・パウロ二世は諸宗教の対話というのは単に宗教同士が対話をするのではなくて、協力することを通して現代世界に挑戦することなのだと断言しております。だから、宗教対話は現代世界への挑戦であると非常に力強く述べているのです。
 それでは、どのようにすれば宗教対話というのが実現するのでしょう。コミュニケーションをよくするとか、友情を結ぶ、とかいうことは勿論大切でしょう。でも宗教対話という限りにおいて、真理を一緒に探求するということが大切になってまいります。対話というのは何でしょう。ただ単に仲良くするということでしょうか。
 これに関しましてこの文書は対話の4つの形式ということを話しております。

 第一は「生活の対話」、です。自分の生活の中で隣人に生き生きと開かれていない人は、宗教間の対話をすることはできません。自分と一緒に生活している人と会話が出来ない人がどのようにして諸宗教との対話をするでしょう。ほとんど不可能といってもいいと思います。

 二番目は「行動の対話」、と言っております。私達の周りにはより良き社会を築くために善意を持って行動している人たちが多くいます。NPOでしょう、NGOでしょう、小さなボランティアグループでしょう、見える活動をしている人、見えない活動をしている人、多くの人がいます。その人たちと一緒に歩むこと、これを通しながら現代社会の中で何かを成し遂げていく人。即ちこういう姿勢を持っている人が宗教対話を可能にするというのです。こういう姿勢を持たない人は他の宗教のよさを発見したり、評価したり、対話したり、協働したりということは不可能と思われます。社会の問題に目覚めない人が宗教対話はできないということ、これがヨハネ・パウロ二世の最大の強調点です。すべての彼の話はこれにつきます。

 三番目は「神学の対話」、とよんでいます。別に神学者とか学者がする対話のことを言っているのではありません。基本的にこういう神学、あるいは、こういうキリスト教的なものの見方がないと対話が出来ないと言っているのです。どんな考え方なのでしょう。お恵みというのはすべての人の上にあること、すべての人の中にお恵みがあること、各国の文化や宗教の中に神様の恵みがあり神の計画があるということ、これが分かる人を「神学の対話」ができる人と言っているのです。したがって、相手が置かれた状況がよく分かってそして対応する能力を持っている人のことです。自分の正しさだけを強調して、それだけを押し付けていく人は決して宗教対話はできません。文化や環境や人たちの間に神様の手があり、その人たちと接することを通して神様の恵みを感じ取っていく、これが大事な姿勢だということです。

 最後、第四番目です。「宗教体験の対話」、と呼んでおります。スピリチュアリティー(spirituality)の対話、又は、霊性の対話とでも申しましょう。諸宗教の対話である限り必ず宗教体験をしてないとこれは理解できません。祈りを知っている人でなければ宗教間対話はできません。本当に深く祈る人は他宗教の良さを評価し、他宗教の人たちと深く紳士的に交わることができます。そうでなければ悪戯に相手をなじったり、非難したり、喧嘩腰であったり、攻撃的であったり、破壊的であったり、という態度になります。以上を総合しますと、対話が出来るためには平衡感覚が一番大切だということがおわかりでしょう。
 四国のこの地方におきましても、私たちが住んでいる日本の社会におきましても、私たちは協力して手を取り合って対話して、日本の社会の中にキリスト教が市民権を持つように、がんばらないといけないと思います。

 さらにこの文書は「対話と福音宣教」、ということを話しております。カトリックでは福音宣教という言葉を使っておりまして、プロテスタントの場合はなんという言葉を使うのでしょう。「ケリグマ」ともいうのですか。
 英語のエバンジエリゼーション(Evangelization)という言葉の翻訳を福音宣教と言っております。
 それでは福音宣教とは何なのでしょう。今までは相手に教えを教え込んで洗礼を授けることを福音宣教と往々にして考えてきました。でもこの文書は福音宣教とは、人の物の見方、考え方、人々の意識の変革を指しています、人の価値観が変わる、これが福音宣教であると考え、ここに重点をおいています。人々の意識が変わりますとその価値観も変わりますし、その価値観が変わりますとひいては社会そのものも変わっていきます。「福音宣教」が社会そのものを変えていく大きな力になるのであって、これが大事なことなのです。したがって、社会に生きている人と対話ができない人が、どのように福音宣教ができるというのでしょう。どのようにすれば人々が考えを変えるというところまで行くことができるでしょう。だから、対話というのは「福音宣教」の根本的な理由となるのです。

 それでは、二部です。「対話と宣言」ですので「宣言」ということもお話ししましょう。
 対話を単なる話し合いに終わらせないために、「宣言」ということが必要になってまいります。旧約時代にはイスラエルの民というのは選ばれた民といわれていました。何のためにイスラエルの人々は選ばれたのでしょう。自分達が神様を知っていることのために選ばれたのではありません。私たちは選ばれたそのことを通して他の人々が、他の国の人々が神様を知ることができる、そのために選ばれたという意味で使われております。したがってイスラエルの民を通して神の熱い思いが伝わっております。人々はイスラエルの民を見ながら神様の熱い思いを知ることが出来るようになる、そのために選ばれるのです。
 この選ばれた民はイエス・キリストによって建てられた教会に受けつがれております。私たちは教会に属しております。私たちは選ばれた民です。私たちは、ただ手を取り合って仲良くしようとする民ではありません。私たちは、この選ばれたことを通して、神様の愛が、神様の教えが、人々に伝わっていく、これが大事な点です。したがって私たちが選ばれた民ということは何よりも対話を大事にする民なのだということになります。
 対話がなんとなく友情とか交流にいたる可能性といったことに限られているのに反しまして、教会は主イエス・キリストの教えということをきちんと示しています。
 私たちはみんな主イエス・キリストを信じます。この共通の土台の上に私たちは現代社会に挑戦していくわけです。キリスト教諸教会が対話できるためにはここにいる一人一人が主イエス・キリストという信仰宣言をきちんとしていないといけません。今日、こうしてキリスト教諸教会が一致を目指して集まって祈りの集会を持っています。本当に幸いです。主イエス・キリストという共通理解を持っている私たちは大きな大きな強みがあります。これを活かして現代社会に大きく挑戦していく、働きかけていく、一致して働きかけていく。こんなことを心するように致しましょう。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています