主の降誕夜半ミサ説教 ルカによる福音(2:1−14)
2005年12月24日
於:桜町教会
今日初めて教会にお見えになっている方がおられるかなと思います。私も考えてみますと,50数年前初めてクリスマスのミサに与り,宗教ってこんなものなのかなということを考えさせられたことがあります。全く宗教とか教会とか縁がなかった人間でしたけれど,それから何かを受け止めたのでしょう,それからの私の人生は大きく変わったような気がしております。皆様が今日こうしてクリスマスのミサに与っているのも,また何かのご縁だろうと思います。これを機会に,何かを受け止めて帰って行かれるようにお願いしたいと思います。
今聖書の中の福音書という本が読まれました。そこに登場する人たちはみんな普通の人々です。何か特別な人はおりません。例えば,ヨゼフは大工さんです。その妻のマリアと呼ばれる人は,おそらく,10代だったでしょう。その頃12,3才で結婚していた状況でしたので,10代のまだ若いお嫁さんといっても良いでしょう。そしてそこを訪れる羊飼い達は,お金持ちでは決してなかったでしょう。羊を1日追って,そして夜は狼から守るためにその檻の中で一緒に寝ている,こんな人たちです。でも,とても静かな夜です。アウグスチヌスという人がいますけれど,アウグスチヌスは「平和とは秩序の中の静けさである」と,こんな定義をしております。「秩序の中の静けさ」と。まさに静かな中に平和が訪れていると感じられております。その中で私たちは今日,幼子イエスが生まれたということをお祝いしております。その幼子イエスは飼い葉桶に寝ている,寝かされています。でも,登場する人の中に一つ共通の特徴があります。それは,その人たちは貧しいけれど,毎日の仕事を一生懸命に生きている人たちであるということです。自分の生活のために働かない人々には平和は訪れません。怠惰で人の懐ばかりを相手にしている人には,平和は訪れません。
でも,今日は別な話をしましょう。
どうして馬小屋に,まぐさ桶にイエスが寝かされているのでしょうか。教会はここに特別な意味を持たせています。すなわち寝かされているということで,この人は世界の人々のために捧げられている,差し出されているという意味です。先ほど,「平和とは秩序の中の静けさ」という定義づけを行いました。でも若者は,この秩序の中の静けさがたまらないのです。何か変化を求めてやみません。刺激を求めて絶えず家を飛び出します。家にじっとしていることができません。家の中にじっとしている平和なんて,嫌でたまらないのです。こうして親と子どもの諍いと問題が,いつも起こって参ります。私たちもその体験をしてきたのですが,年とともにそんなことを忘れているにすぎません。ここで若者と大人達の争いが始まります。「言うことを聞かん」ということで,親がげんこつを一つ食わせて静かにしていろと言うと,必ずその家庭の中で波風が立ちます。子どもは親に反抗し,親はますます暴力的になっていく。そんなことを繰り返している中に家庭の平和がなくなります。それが親子ならまだ修復する可能性が十分にありますが,他人になると争いは深刻です。それは学校の教師だって同じだと思います。この間起こったあの塾の先生の事件のことでも同じだったと思います。「言うことを聞かん」,この一点張りになってしまいます。だから,先生が学生を殴ったといったら大騒ぎになり,それに父母も巻き込んで,学校中が大騒ぎになります。挙げ句の果てには先生が退職して,それが原因で夫婦別れも起こるかも知れません。家庭が崩壊するということになるかも知れません。これが国家間でしたらどうなるでしょう,戦争となります。「あいつは言うことを聞かん,だから暴れん坊のあいつに制裁を加えるんだ」と,こういう風に考えたら,まさに戦争です。そして国内では暴動となります。決してそれには従うことができないという正義感が芽生えて,抵抗勢力となります。そして,収拾がつかなくなります。
こんな時どうすればいいのでしょう。今の世界が抱えている問題ですし,日本が抱えている問題と言ってもいいと思います。単に,この静けさの中に平和がある,秩序があってここには平和があると,それで良いのでしょうかという質問が起こります。国連軍を出して平和を保てればいいじゃないか,という風にお考えになるかも知れません。でも,国連兵なるものが派遣されましても,実力のない国連兵というのは逃げの一手しか打つことができません。彼らには何の力もないというのを,私たちはよく見ております。対話などできる状況ではありません。それなら力しかないと考えて,武力で制圧するとなると平和が来るのでしょうか。その途端に内線が激しくなるというのを,私たちは見ております。人間は,力でもってのぞめば必ず力で反抗し,そして分裂し内戦が起こる。こんな風に考えたら良いでしょう。じゃあ日本がするみたいにお金を渡して,国内を整備していけばいいと考えます。お金さえ渡したら何とかなるんだと思っているのです。経験から私たちがわかるのは,そのお金も物資もあらぬ方の方に使われて,必要なことには全く使われなかったという事実を何度目にしたことでしょう。そして,お金が流れれば流れるほど国が悪い状況になるというのも,よく見て参りました。人間とはどうしてこうなんでしょう。
恥ずかしいことですが,こんな人間こそ私たちということを考えないといけません。それでは本当にどうすればいいのでしょう。教皇ヨハネ・パウロ二世は,広島のあの話の中で「戦争は人間の作り出す業です」という有名な言葉を述べておられます。すなわち,人間の心が変わらない限り,戦争は避けられませんし,平和は二度と戻らないと考えたらいいと思います。今,幼子イエスは手を差し伸べて,私たちに「あなた方は変わりなさいよ」と,「あなた方の生き方そのものを変えなさいよ」と,こういうメッセージを伝えています。「私のように小さくて,他の人の手を借りなければ生きておれない。こういう事を自覚する人間になりなさいね」と,こういう事を今日のクリスマスのメッセージが伝えております。クリスマスというのは,私たちに,もう一度人を憎まないで生きること,戦争は自分の中の醜い罪から始まるということ,こんな事を教えております。
このミサに与っている皆さんお一人お一人が,このミサを出るときに,自分は平和のつくり主であるということを,まず自分自身に向かって問いかけなければなりません。自分自身を見つめて平和のことを深く考え,この場を去ることをお勧めします。すなわち,このクリスマスのミサが,単なるアクセサリーではなくて,自分たちの人生をもう一度見つめ直す良きよすがとすることが大切です。こういう事をお勧めして,今日の御ミサを続けていきたいと思います。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています