待降節第4主日説教 ルカによる福音(1:26−38)

2005年12月18日
  於:宇和島教会

 今日は待降節第四の主日です。
 サムエル記の中でダビデのことが話されております。ダビデは神から選ばれ彼は祝福されます。ところが恵まれた生活をし、慣れるにつれて思わぬ落とし穴に落ちてしまいます。「主はあなたと共にいる」ということを忘れていつの間にか自分で成功しているかのように思ってしまったことです。こうして庭で水浴びをしている婦人に心が動かされ、彼女を自分のものにしてしまいます。もっと悪いことには、彼女の夫を戦場の一番激しい所に送って死なせたことです。そして彼女を奪い取ってしまいます。さらに、もっと悪いことにはそのことに関して心の痛みを感じなかったということです。預言者ナタンは一つの例えを使って彼を責めます。「多くの羊を持っている男が言った。一頭の羊だけを持つそれを可愛がっている男がいた。前の男は後ろの男から一頭の羊を取り捧げ物にした。」この時ダビデはそんな男は許せないと怒ります。ナタンは「それはあなただ」と責めます。
 問題は自分がこの女を奪ったこと、男を殺したことについてなんの痛みも感じていなかったことにあります。「主が私と共にいる」と過信していました。その時死んだ男の痛みをいやと言うほど思い知らされ「私は罪を犯した」とダビデは泣きます。
 「主が私と共にいる」とは栄光の道のことではなく、私の心の襞のその奥で、私の高慢さ、怠惰、これらをはっきり見せるためにおられるのです。

 アウグスティヌスの話もしてみましょう。若い彼は奔放の青春時代を送り、ある女性と同棲します。母親のモニカは決して結婚できないからとの理由で、二人を別れさせます。女性は子供をモニカに渡し、彼のもとを去っていきます。彼女は誰のところにも生涯行かないと誓って去ります。アウグスティヌスはそれから間もなく、また別の女性を家に引き込みます。この時、彼女を裏切った自分に彼はうめきます。アウグスティヌスは彼女を裏切ったことを軽く見ていました。人生をなめていたのです。しかし、彼女の愛に触れた時、自分の醜さをイヤというほど知ったのです。

 「主は私と共にいる」という言葉を自分勝手に、自分のためにあるかのように感じていたのです。マリア様に天使は言います。「主はあなたと共におられます」。マリア様は、主がいるので、何でも自分の自由になるとは考えていませんでした。いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだと言われています。有頂天になったダビデやアウグスティヌスと根本的に違っています。神からの言葉を聞く時に、これはどんな意味かを問うているのです。この問いかけが出来る人は高慢になったり、人を見下したりすることはありません。謙虚に自分の生き方を問うことができるからです。
 「恵みあふれる聖マリア、主はあなたと共におられます」この祈りの意味を考えてみましょう。
 聖マリアと共に私に問い掛けている神の言葉を考える人間にしてくださいという祈りなのです。

    (この文章は溝部司教様の校閲、発表のご許可を得ています)