待降節第2主日説教 ペトロの手紙二(3:8−14)

2005年12月4日
  於:桜町教会

 今日の第2朗読にあるペトロの手紙のある箇所だけを,一緒に考えて黙想するようにいたしましょう。

 「愛する人たち,このことだけは忘れないで欲しい」と,この手紙は始まります。聖ペトロは信者達に「これだけは忘れては困るよ」ということを言っているわけです。では,「このことだけ」というのは,どういう事を表しているのでしょうか。次にこういう風につづけます。「主のもとでは一日は千年のようで,千年は一日のようです」これを忘れないでくれと言っています。一日は千年,千年は一日。どういう意味でしょう。
 まず,「一日は千年」ということを考えてみましょう。今日というこの一日は千年に値する価値があるということを表しております。これを忘れてはいけないよということを,ペトロは勧めています。また一日が過ぎた,というのではなくて,この一日が千年の重みの中で過ぎていくということを表しています。考えてみますと,今日何をしたかわからない日々を過ごしているかも知れません。今日という日をどのように生きるかというのが,一番大事なことなのです。教会は,この待降節を通しながら,主のもとにあって今日一日をどのように生きるかということを考えなさいと,まず勧めております。
 では次です。「千年は一日のよう」。そうです,人生50年60年70年80年,生きたかも知れません。どんな人生の日々だったでしょう。私も70才を超えております。思い浮かべますと,戦争があった前の日と,戦争中のこと,子供のときのこと,戦後の貧しかったときのこと,青年期のこと,日本が繁栄して,そしてバブルがはじけた時代のこと,思い起こすだけでもこれらのことが過ぎ去っていきます。私が司祭になった日のこととか,あるいは初めて教会で働いた日々のこと,そのときに出会った人々のこと,悩んだこと,迷ったこと,今振り返ってみますと全部夢のようです。豊臣秀吉は息を引き取る前に「この世は夢のまた夢」という辞世を残して去っていきます。
 考えてみますと,ほんとに不思議なくらい時が流れていきました。そして,その流れの中にあってまだ私は生きている,とても不思議です。あれほど昔悩んだことがあったはずなのに,でも今は実感として湧かない。夢のまた夢だったのかなというところがあります。今だって同じです。こうして戸惑ったり,慚愧の思いにとらわれたり,一喜一憂している。これもあっという間に過ぎ去る,一時の夢に過ぎない。でも主のもとにあっては,「それは千年」,私たちが歩んだその一日一日が,主のもとにあって,必ず刻み込まれているのです。そして,そのことのために慰められるという希望のことばが述べられています。

 今この「一日は千年,千年は一日」ということに関しまして,この2つに共通している誘惑というのがあります。まず第1の誘惑です。それは,まだこのまま続けるだろうという錯覚です。この錯覚を持っている私たちに鉄槌が降ります。主の日が盗人のようにやってくると言っております。そうなることは頭で分かっていますが,実際は信じていません。自分の同僚や,自分の先輩あるいは自分よりもずっと若い人が次から次にこの世を去っていくのを見ているのに,それでも自分はまだだろうと考える,これが錯覚なのです。あなたは明日かも知れない。今日かも知れない。主が呼ばれているのはいつかわかりません。それでも主は「盗人のようにやって来るよ」と,この書をもって私たちに話しております。ということは「今日来てもいいように準備していなさい」ということです。大事なのは,あなたが今日一日を生きることが大事なんだ,明日が来なくてもいい,でもこの今日一日をどのように生きるかが大切なのだと勧めているのです。
 ある聖人の話を聞きました。「明日,あなたには死が訪れて,あなたの人生の最後になります。今日あなたは何をしますか」。その聖人は次のように答えたということです。「私は,昨日生きたと同じように今日も生きます。同じ事をします。そして明日終わっても構いません」と。こういう生き方をペトロは勧めているのだと思ってもよいでしょう。

 では待降節のメッセージです。あなたに与えられた人生とは何でしょう。家庭に生きて主婦をすることですか。それを生きることが大切です。職場に行って仕事をする,そこにあなたの人生がある。そこを逃げて,他の所に人生の意義を見つけているのではありません。学校に行くことでしょうか。学校に行って勉強する,これがあなたの人生です。そこに,まず気をかけないといけません。他にもたくさんあります。自分の毎日の生活から逃げて逃げて,そして教会に来てお祈りすれば人生が豊かになるとはとても私には思えません。今いるその場所で,そのところで自分が生きる,それがとても大事なことになって参ります。
 さらに続きます。「ある人は主の日が遅いと文句を言った」。きっと初代教会で文句を言う人がいたと思います。こんなつまらない世の中で,こんなに不正が行われて,こんなに乱れて汚れて,神よ鉄槌をおろしてくれ,罰をあげてやれ。こんな風に考えた人たちがいました。「私は,こういう世の中に生きていたくない,早く死にたい」とこんな風に言ったのだろうと思います。でも,ペトロは言います。「いつ来るかわからないが,ただ一つだけ言える」。「一人も滅びないように神は忍耐しておられる」。私たちは忍耐が無くなっております。すぐ正義を振りかざします。それが実現しなければ,いらいらします。人を非難します。しかし神様は忍耐しておられます。この一日を忍耐して見つめておられます。自分の人生も他人の人生も忍耐して見つめていかないといけません。
 この世はこのまま続きません。この世のことだけに一喜一憂してはいけません。目を上に上げて,あの方を見ることが大切です。あの方は,一人も滅びることがないように一人一人に目をとめています。ここにいる皆さんお一人お一人に,私たちの主イエズスは目をとめています。あなたの人生は60年でしょうか,70年でしょうか,80年でしょうか。あなたの歩んだその道を,神様は目をとめて見つめておられます。いたずらに正義を振りかざして,神の裁きを求めるのではなくて,あるいは怠惰に毎日を過ごすのではなくて,神のあわれみを信じて,自分の人生を,与えられたものとして生きていこうということが大事です。

 私も最近70才を超えて,人生の集大成の時期に入ったなと感じております。今まで体験してきたいろいろのことを,少しずつ一つの方向に向けて歩んでいかないといけません。人生の最後を汚点で汚して生きてはいけないと,つくづく思うこの頃です。いつまでもここにしがみついたり,今の時におぼれてしまったりしないで,確かな未来,これを主の手に委ねていく,これが大事なことではないでしょうか。人生の実りある時を味わうために,毎日毎日与えられたものをどのように生きるか,これを考えてみるようにいたしましょう。そのことのために私たちは待降節を過ごしております。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています