待降節第1主日説教 マルコによる福音(13:33−37)

2005年11月27日
  於:徳島教会

 今日は待降節の第一の主日です。
 「目を覚ましていなさい」という言葉が3回今日使われております。「グルピニオ」というギリシャ語で、これを目は覚ましていなさいという意味で扱われます。即ちこの意味は野宿して夜の物音に気をつけて眠る状況のことを指しているそうです。何かが襲ってくるのを考えて「目覚めていなさい」というのです。
 本能的な野性的な目覚めです。ギラギラ光っている目覚めです。
 待降節に入って教会は目を覚ますように勧めます。それではどのように準備して目覚ましているのでしょう。
 ローマ書ではつぎのように言っています。「あなた方は今どんな時であるか知っているのですから、ことはなおさら重大です。もはや眠りから覚めるべき時期なのです。今やわたしたちが信じ始めた時よりも救いはいっそう近いのです。夜は更け、日は近づきました。ですから闇の業を捨て光の武具を身に着けましょう。酒盛りで大騒ぎしたり、酔いつぶれたり、淫らな行いに耽ったり、身を持ち崩したり、争ったり、妬んだりすることなく日中歩くように慎み深く生活しましょう。」ローマ書13章の11節から13節です。
 そうです。待降節は事の重大さをよくわきまえて生きる時なのです。今までの生活の連続ではなく、目を光らせて救いの日々を生きる時です。ギラギラと目を輝かせて襲ってくる野獣に立ち向かう時なのです。どんな野獣でしょう。私達を怠惰に落ち込ませる野獣です。人生ってこんなもんだと思い込ませる、なめてかかってくる、こんな怠惰への挑戦です。
 人生は本物であり、生きる価値があるものなのです。初冬の風のようにキリリと生きる価値があるものなのです。

 どのように生きる、どのように待てばよいのでしょう。
 「家を後に旅にでる人が僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ」と今日の福音が言います。
 そうです、仕事をして待つのです。当時の教会ではあまりの困難さの前に諦めている人たちがいました。外圧はローマの迫害であるし、ユダヤ人からの迫害であるし、異邦人の蔑みでした。外部ではユダヤ人とそうでない人々、異端、意見の違いなどから分裂していました。こんな状態に諦めて、もうどうでもいいと投げやりになっている人たちがいました。ある人はこういうなまぬるい状況にあき足らず、もっと根源的に福音に従おうとしました。しかし、原理原則を重んじるあまり、いらぬ摩擦をたくさん犯してしまいました。熱烈に神の国を待ち望み、仕事よりも祈りを大事にしました。この両方共に責任を分かち合い、毎日の仕事を大事にして忍耐して生きるということに欠けていました。
 目覚めなさいとは、毎日の生活を生きなさいということなのです。毎日家事をしなければならないでしょう、それを大事にすること。毎日オフィスに座る、これを大事にする。毎日病床にあるかもしれません、それを大事にすることです。自分の通常の生活を大切にしないで、それ以上の特別なものによってのみ充たされようとしないことです。

 今日は司牧評議会発足の日です。信徒の皆さん大きな責任を教区の中に持ったということです。責任を持つということは、自分の発言に責任を持つことです。一切ものを言わないでよい人になることは卑怯です。ものを言って言い放っしの人は無責任になります。発言し、協議し、決定したことをしっかりと歩もうとするとき、必ず何かが生まれてまいります。

    (この文章は溝部司教様の校閲、発表のご許可を得ています)