下田神父金祝ミサ説教 マタイによる福音(25:31−46)

2005年11月20日
  於:箱崎教会(福岡)

 下田神父様の金祝のお祝いにあたってこのお話が出来ることを光栄に思っております。
 今日の福音では救われる人の基準というのが出てまいります。

「私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」

 偉い人とはだれでしょう。一般には事業を起こしたとか、政治家とか、福祉事業を起こした人々とか、有名な大学の教授とか、こんなことを想像してしまいます。いわゆる勲章をもらう人たちのことです。昨日ラジオを聞いていましたら「アインシュタインは偉大な天才であった」とこんな話をしておりました。回りを見渡しますとけっこう天才のようにひらめき輝いている人がたくさんいます。
 ところが、イエスは「偉大になりたければ自分を小さな者にしなさい」と勧めています。偉大な人というのは小さな者、自分が貧しく至らない人間であると知っている謙虚な人のことを指しています。この謙虚な人の行為は「食べさせ、飲ませ、見舞い、宿を貸す」ことができる人のことです。心から暖かく他の人の必要をみて同情し、その人の必要に応えていこうとする、この人たちをイエスは「偉い」と言っております。
 宮沢賢治の詩に「雨にもめげず、風にもめげず」というのがありますが、「東に困っている者があれば米を持って行き、西に病気の人があれば見舞いに行く」ということを言っています。自分だけが立派な生活をして、他の人の必要をぜんぜんみない、これが裁きの理由になります。しかも、これを自然にしていくぐらい繰り返し、繰り返し人に対する思いやりの行為を行わないといけません。
 「愛徳」というのは何度も愛するという業を繰り返しているうちに、それが自分の身について「愛徳」となります。徳とは善い習慣だからです。善い習慣ができますと、その人が変わります。

 私は正岡子規の句が最近とても好きになりました。彼は風物をそれから自然を詩にしてしまうのです。今日の句めくりでは「アメリカも共にしぐれん海の音」というのがありました。昨日のは「さびしさも温さも冬の初めかな」。実に単純でそして人間に対しての深い思いやりを感じさせる句です。
 しかし、自然の思いが超自然に変わって、はじめて小さな者になります。自分の周りにいる人々にキリストの姿とを見ることです。マザーテレサは死にゆく人々をあわれんだのではなく、その人々の中にキリストを見たのです。

 今日は下田神父様のお祝いのために私たちはここに集まりました。下田神父様の人柄は、偉ぶらない、自然に即した生き方を大事にしていることです。私はまだ知り合いになって短いのですが、その短い交際の中に充分に下田神父様のすばらしさが分かったつもりです。
 この一年間、私は最初は戸惑いばかりでしたけど、そこにはいつも温かい下田神父様がいました。どんなに大きな慰めとなったでしょう。
 温泉に連れ出してくれたり、食事に誘ってくれたり、新しい司教を孤立させないようにという心遣いをたえず見せてくれました。感謝しております。
 また、高松教区のために長く働いてくださったこと、これについても心から感謝します。みなさん、先輩の司祭達の仕事を通して今の教区があります。短絡的に古い物を壊していく愚かさというのを、私は自らに今戒めているこのごろです

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています