年間第24主日説教 マタイによる福音(18:21−35)
2005年9月11日
於:新居浜教会
今日の集会祈願は次のように言っています。
「愛の源である神よ、分裂と争いに悩む世界に、あなたの赦しと和解の道を示してくださいました」
まず、「分裂と争いで悩む世界に」と言っています。考えてみますと人間の歴史は常に分裂と争いでした。そして今もそうです。どうしてこうなるのでしょう。人の中には闘争本能のようなものがあるからでしょうか。歴史や社会の中だけではなく、家庭の中にも職場にも、教会の中にも分裂や争いが起こります。これらは英語でいう「フェイタル」、運命的な必然なのかもしれません。これらが起こるのは人間の中に潜んでいる原罪の結果なのでしょう。そしてそこから起こる「自分こそは正しい」という優越感に似た思いです。自分が考えていること、していることは絶対に正しいと思い込み、相手に敵対感情を持ちます。往々にして新しがりやで、改革癖であったり、伝統にしがみついて新しいものを全く受け入れられない考え方が生じます。自分こそ正しいと思っている人ほど怖い人はありません。だから武力を持ってでも他の国に侵入します。教会の中でも同じ事が起こってしまいます。
対話が出来ず、自分の信念のみを押し付けると必ず争い、分裂不和が起こります。争いはあるものだと考えている現代社会に、「赦しと和解の道を示してくださる」と今日の祈りは進めていきます。自分を正しいと思い込むのは罪だとすれば赦しというのは相手をしっかり見つめることを表しています。
今日の福音は「七の七十倍まで赦す」といっています。無限に相手を見つめなさいということです。赦すというのは相手の立場に立って考え、受け入れようとする姿勢、又は行為のことです。
家庭においても、職場においても、教会においても、相手の立場をしっかりと分かって行動すれば素晴らしい共同体が生まれます。だから集会祈願は次のように結びます。「私達がキリスト者として互いに受け入れあい、神の愛を表していくことが出来ますように。」
サレジオ会の宣教師に創立者は新しい土地に行ったら、改革癖でないようにと勧めています。人々のやり方、考え方があるのでそれを大事にして、そして宣教師として受け入れられたら、自分のイニシャティブを始めなさいと、宣教団の派遣式で述べています。
理想、夢を持つのは大切ですが、今、生きている人々を大切にすることのほうがもっと重要なのです。同様に新しいものを全く拒否する姿勢も誉めたものではありません。時代が変わっていくのに自分達が受けた昔の習慣に皆を縛り付けていけば、その家庭も、共同体もどんなものになるでしょう。
それでも、分裂や争いを乗り越え切れない時にはどうすればよいのでしょう。「自分の最後に心をいたし、敵意を捨てても滅び行く定めと死と思い、掟を守れ。」と今日の書簡は言います。いよいよとなったら自分は死に行く有限の存在だと悟れと言っているのです。今のことでウジウジしたり、こぶしを振り上げたりしないで、全ては過ぎ去ると考えて大観しろと言うのです。
最近わたしも耳が遠くなりました。世界青年大会に行って、青年と共に歩いて寝泊りして自分もまだ捨てたものではない、健康だと自惚れました。しかし、その実は帰ってからいまだに、夜寝付くことができません。自然のリズムを無視してはいけないのです。若い時はこぶしを振り上げ、自分の正義を主張します。そして傷ついたり、傷つけたりします。年とともにゆっくりと人の立場を理解するようになります。自分の主張が一方的であったと恥じることが多くあるものです。
「老いし鷹、目鋭く秋哀れ」という村上鬼城の句があります。うろ覚えで不確かではありませんがこのような意味の句です。「年をとってもなお闘争している老人を見るのは悲しいものです。」
「良い実りを良い木は結ぶ」と先週の日曜日読まれました。良い実りというのは、十年二十年のスパンで考えないと分かりません。今、教育したらすぐにこの青年が変わるのではありません。
こう考えますと、時と共に多くのことは解決し、死の床、その向こう側まで待って行くような問題は無いということが分かってまいります。その時に、赦しと和解が産まれてまいります。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています