年間第23主日説教マタイによる福音(18:15−20)

2005年9月4日
 於:中島町教会

 今日は第23主日の、マタイ福音書をご一緒に読みながら、考え黙想するように致しましょう。先ず、こういう風に言われております。「兄弟があなたに対して、罪を犯したなら」、・・これは、教会の中のことが問題にされております。昔の教会も、今の教会もそれ程変わらないかも知れません。

 今の教会で、兄弟同士で争ったり、不和を起したり、分裂したりして、相手をなじったり致します。そのために、両方が傷ついて参ります。「罪を犯したなら」という、ことばを使っております。罪というのは、私と神様の関係のことだけではなくて、私と他のもう一人の人との関係をも指しております。従って罪の大きさというのは、相手に与える損害の大きさと、比例して考えることが出来ます。相手にどれだけ害を与え、相手を傷つけたか、ということと、自分の罪の大きさというのが、比例してあります。昔の教会も争いや不和や分裂が多かったのだろう、と私たちに想像させて居ります。

 教会は、不和と分裂が起こるとき、数に頼ってとか、力で相手を押しつぶすということは致しません。ましてや、威嚇したり、罵り合って、ことを解決しようと考えるわけではありません。「二人だけの所で、忠告しなさい」と、こういう言葉が述べられます。ゆっくり話し合うことです。相手の主張をゆっくり聞くことです。ここには、相手への思いやりや深い愛情が溢れております。こそこそと、自分の思うとおりのことをして、そして、恬として恥じない、そんなことをしていては、益々分裂が深まります。口汚く罵り合っていては、これも益々分裂が深まります。

 今の私達の教会の実態というのを見ていきましょう。イエズス様が薦めていることとかけ離れているという実態があるし、考えてもよいでしょう。私達の教会の姿というものを、よく考えないといけません。教会の一致など望めないと諦めてもいけません。初めから先入観で相手を決め付けているのかも知れません。改めないといけません。私達の教会では、本当に、深い思いやりと、愛情というものが溢れているでしょうか。

 今日の福音は、こんな質問を私達に投げかけております。ところが、このように続きます。「聞かなければ、他の2人3人と一緒に」と。ここでも決して、高圧的になっておりません。説得しようとします。話し合おうとします。洗脳するという言葉が使われますけど、原理主義者はこれをよく使って、相手が、自分の考えにどっぷり漬かるまで相手に同じことを、繰り返し繰り返し述べるということを致します。それは、怖い結果を生み出すことがあることを、私達はよく知っております。気をつけないといけません。

 私は常日頃、若い人と出会うことが多いのですが、彼らに、口癖のように言っている言葉があります。人権に反することを吹き込む宗教とか、お金を請求する宗教には気をつけなさい。人のいのちや、女性・子供の虐待、差別を口にする宗教も信じてはならないと言っております。同様に、なんやかんや言ってお金を請求する宗教も信じてはいけませんよと。教会はどこまでも、洗脳ではなく、対話を基本としております。上意下達を当然とする、従前の教会のあり方から私達の教会は、どんなものであるか考え合わせて見る必要があります。

 こうして兄弟愛というものは、教会の下から支え、如何なる困難にも立ち向かっていく力となります。残念ながら、不和で一致していない教会は、外部に向かって立ち向かう力を有しておりません。しぼんでいくだけの教会は、本当の意味でのメッセージを発することが出来ません。更に続けます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し入れなさい。」ここで言っている教会とはなんでしょう。次の項で繋がって、権威を持っている人が治めている教会と、こういうことを指しております。
 具体的には、司祭と信徒で成り立っている教会と、こんな風に考えてもいいでしょう。私達の教会も、司祭と一緒に信徒が共に作っていく教会があります。日本の多くの教会では、小教区の信徒会の規約を見直そうという運動を始めております。即ち、単なる組織としての信徒会ではなく、信仰に基づいて、愛徳を中心に考え、教会の教えの正当性をきちっと伝える信徒会を考えようとしております。お金の計算と、管理だけをする信徒会から脱皮しましょうという運動を起こしております。

 司祭と一緒になって、教会会員の一人一人に気を配り、共に牧するという信徒会を目指しております。私達の教区の信徒会も、少し考え合わせて見る、よい機会となっております。「教会に申し出なさい」というのは、こういうことです。争いや分裂が、正当な教えに反しているとき、又は感情的にむきになって、早い解決が不可能なとき、どうすればいいのでしょう。地上でとく、繋ぐ権限をイエズス様は、弟子たちにお与えになりました。そうです。ここが、司祭の出番です。

 神の名によって分裂している人達、争っている人達を繋ぐ役割を司祭はしないといけません。同様に、信徒会の方々もしないといけません。大切なのは、愛徳に基づいて、人々を同じ信仰の喜びに連れて行くことです。司祭たちが、分裂を益々深めるということをしては、決してなりません。司祭の役割に反しているからです。同じように自分の主張だけで信者を洗脳するなんてことは、辞めないといけません。或は、感情の赴くままに信者を扱ってもなりません。これは、信徒会についても同様に言えることです。私達は共に、対話と愛徳を基盤とする私達の教会ということを考えております。

 組織です。でもその組織は、人々のために開かれた、人々を癒し、人々を救い、人々に奉仕する、こんな組織である、こういう理想を求めております。今日の福音書からこの辺のことをお伝えすれば、並びに黙想が出来るのではないかと思われます。

 ※この文書は溝部司教様の校正と配布の許可を頂いております。