年間第22主日説教 マタイによる福音(16:21−27)
2005年8月28日
於:桜町教会
今日の聖書の言葉から三つの言葉をご一緒に黙想しましょう。
エレミヤ書の20章の7節から9節の中にあります。
エレミヤは言います。「わたしはあなたに捕らえられました。」わたしは今ケルンから帰ったばかりです。百万人の青年が黙々と野宿の場所に歩いていました。食事もありませんでした。野宿でした。霧が立ち込めて着物も全部びしょ濡れになります。それでも歩きます。何かにつかれたと言ってもいいのかもしれません。わたしの人生はあの方に捕らえられたというのは、その時わたしが感じた本当の実感です。
わたしは七十年間生きてきました。"もしも"が許されるなら、あの方に出会っていなければ、わたしの今の人生はきっとなかったでしょう。ちょうどこのことのために私の喜びも悲しみもありました。みなさんも教会に来たということは、とてつもない大きな出来事だったのです。遠藤周作ではありませんが、「もう逃げられません」。いつまでもあの方は、わたしの後に付いてこられるのです。
二つ目です。「聖なるいけにえとして捧げなさい。」洗礼を受けたということは捧げるためです。もらい根性の信仰はありません。人のために捧げると決めるときが洗礼です。人のために捧げると誓うときに聖体を頂くことがあり、ミサを捧げる時です。自分達の仲間の結束を固めるためのミサであったり、自分の慰めのミサだったりするのは、本当の意味ではありません。ミサに与る時、誰の為に捧げるかを考えないで与ってはいけません。同様にミサから帰るとき、誰のために捧げると決心して帰らないとたいした意味はありません。長崎では必ずミサは誰のために捧げると決めて司祭にミサの意向と、感謝の気持ちのミサ代として捧げます。
第三番目です。「神のことを思わず、人間のことを思っている。」わたしたちの人生観はどんなものでしょう。世間並みに子供を良い学校に通わせ、何不自由のない生活があり、安定していれば良いと願っています。それ以上のことがあれば諦めるか、嘆き節、となります。
ケルンでは不自由を体験する旅をしました。何か物がなくても人は生きていけるという体験です。毎日、パンとチーズと水だけでした。それでも仲間と出会う喜びがいっぱいでした。お互い助け合うことが自然に行われました。「ぼくがしよう」と何か仕事があるとき申し込んでくれる人が沢山いました。日本人が去った後はゴミ一つ残りませんでした。帰国したら今までの生活を変えようと決心している若者が沢山いました。何もいらない、要るのは人の優しさ、そして神の愛だという実感を彼らは持ち帰ることが出来ました。神のことではなく、人の思惑で体裁ばっかりを考えている私達への警告はこの言葉から、私達は窺うことが出来ます。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています