年間第18主日説教 マタイによる福音(14:13−21)

2005年7月31日
  於:西条教会

 「群衆を解散させてください」とイエス様に弟子達が言います。自分達はこの人達と付き合うことが出来ないと突っぱねている弟子達の姿をここにうかがうことが出来ます。調子が良い時、格好の良いところには出てきて、いかにも信心深い話をしているのです。しかし、面倒なことが起こり、自分が手を汚して苦労しなければいけないと分かると、すぐ逃げるのです。これが今日の弟子達です。そして今日の私達です。面倒なことには係わりたくないと思っているからです。だから、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えています。発想法はいつも「しか」なのです。「しかない」と言います。「この教会には二十人の信者しかいません。」「みなお年寄りで何も出来ません。」「お金がありません。」といった発想法です。
 牧者は「こんなにもある」という発想をしなければなりません。上に立つ人が、「あれもだめだ、これもだめだ」と言っている限り何の発展もありません。ましてや、教会などつくれるはずがありません。

 昔、私は大分で高校生会を始めたことがあります。赴任した時三人の信心深い女子学生が集まって何とか過ごしていました。でも、私のやり方が違うと分かった時全員去っていきました。そこで、信者でない高校生を呼び集めてみようと私は考えました。一人もいなくなって、私がしたことは、教会の掲示板に「長文を英語で読みたい人」ということを書き出したことです。四,五人の高校生がそこでやってまいりました。それから再出発です。モットーは三人しか来なかったではなく、三人も来たということでした。高校生会は洗礼の泉でした。
 イエスは「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。そうです。「あなたがたが」、自分でしなければなりません。

 教会で司教も司祭も委員長も自ら責任を取って、今ある中からどうするかを考えることが必要です。人任せにして誰かがやってくれるだろう、誰もいない、こんな「嘆き節」はやめましょう。「暗い、暗いと不平を言うより、明るい心のともし火をつけましょう」とは、「心のともし火」運動のモットーです。
 「こうしてイエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになった。」昔からあるカトリック教会の聖体祭儀です。裂いたパンは十二の籠いっぱいになった、とも言っております。即ち教会は溢れるほどの恵で満たされたということです。
 自ら苦労し、常により善きものを見つめ、働く指導者を持つ教会はパンでいっぱいになるものです。ミサを捧げる司祭は、教会に溢れる恵をもたらすものです。

    ※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています