復活節第4主日説教 ヨハネによる福音(10:1−10)
2005年4月17日
於:松山教会
私はローマで教皇様の葬儀にあずかって来ました。葬儀の後、飛行機の切符がとれないまま2、3日ローマにいましたので葬儀前後のローマの興奮は肌で味わって来ました。200万とか300万の人達、特に若者達がいろいろな国から来て、野宿をしていました。そういう状況がさかんにテレビで放送されておりました。私たちは亡くなられたその日、サンピエトロの広場にいたわけですが、遺体を拝みに行く人の列は長くて、12時間から15時間待たねばなりませんでした。しかも、遺体の傍に居られるのはほんの10秒程度しかありません。それでもずっと待っている、こういう人たちを見てまいりました。
では、どうしてこんなに人が集まるのでしょうか。やはり、ヨハネ・パウロという教皇様は何よりも牧者だったからです。すなわち、彼が行くところ、そこには人々が居ました。大変な歓迎を受けております。しかし、彼の魅力というのは人が大勢いたということよりも、大勢いるんだけれどもそこにいる一人一人が自分は教皇様に会ったという感激をもたせたということです。これはたいしたことだと思います。まあ本当は不可能なことなのでしょうけど、皆、自分はあの方に会ったと、私を見つめてくれたという実感を持って帰りました。
私は3回個人的にお会いしました。司教になって最初の時に日本の地図を持ってきて、仙台教区というのはどこにあるのかと、東京からどれぐらいの距離があるのかとか、こんな質問を最初にされたことを覚えております。それから、あなたの教区で一番大きな問題は何かと質問されたりしました。ごいっしょに食事をしたのも今になれば良い思いでです。
魅力ある人というのは、その人から見つめられること、言葉をかけられるということだけで、相手を魅了していくものです。そして、魅了された時、この人は自分をみつめてくれた、分かってくれたと思い、ついて行こうと決意するのです。
ヨハネ・パウロ2世の魅力は何といってもそのことば、メッセージにあると私は思っております。彼は世界に心を開きました。人権について、平和について、戦争について、彼が語ることばは世界を動かしました。また、ことばを行動で表現いたしました。諸宗教の対話を自ら行動で示されました。イスラムの国に飛びましたし、仏教の国に飛んでいきました。プロテスタントの宗派との対話を試みました。
よき牧者ということを今日祝っていますけれど、よき牧者というのは相手を魅了することばを持っている人と、私は定義したいと思っております。それは、相手を知っているからです。ことばで魅了するには相手がどのような状況であるかを知らないと、ことばは通じないということです。相手を知っているということは、相手を愛しているということです。愛すれば知る。知れば愛する。アウグスティヌスの表現をそのまま現代にも伝えることができます。
今日の福音書はよい羊飼いのことを話しております。よい羊飼いは「自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と述べています。名を呼んでです。一人一人、百匹の羊がいても一匹一匹の羊の名を呼んで。これがヨハネ・パウロ2世が人々を魅了した、大きな大きな要因だと思われます。一般的にとか、人々とか、教会全般とかにことばを言っているのではありません。ここにいる一人一人に話し掛ける、そういう術を心得ています。あるいは自分に語りかけてくれているなと実感させる暖かさを持っている。これがよき牧者だと思われます。
この時に、「羊はその声を知っているのでついていく。」と今日の福音書は言っております。
今日ここに、カトリック学校の関係の方々が見えております。私と一緒に苦労を共にしてきた方々です。私がカトリック学校の現場を体験している司教ということで、お互いに親近感がありました。「カトリック学校のありかたを考える」ということを、この委員会では取り扱いました。
学校の現場も同じことです、学生がついてこない、ついてこないと嘆いている先生は、結局学生を知らないということです。
相手をしっかりと見つめて、愛していく、その時に暖かさというのが伝わっていく、学生は魅力を感じ引かれていくのです。
良き指導者というのは、相手の状況をしっかりと分かることから始まります。自分の考えを是として押し付けてくるようなことではありません。悪い指導者とは、自分の考えを是として、しゃにむに押し付けてくる人のことです。
イエス様はよき指導者、よき牧者として一人一人の名前を呼びます。相手をしっかり見つめて相手の必要が何であるかを理解します、これが出発点です。そして理解したら、それに応えていこうとする、この応えていくこの術が愛するということです。わたしが愛しているのに、わたしがこんなに愛したのにと、言うのじゃなくて、相手の必要をみながらそれに応えていく、これが愛であると私たちに言っております。
闇雲に自分のメッセージだけを発していくのだけではありません。相手の発するメッセージをしっかりと受け止めて、それに応える。これが教会の指導者であり牧者なのだということを今日の福音者は伝えております。
今日、よき牧者の祝日に当たりまして、この教区の司教である私のためにも、それから教区で働いている神父様方のためにもお祈りしてくださいますようにお願いいたします。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています。