聖金曜日ミサ説教
2005年3月25日
於:桜町教会
本日は昨日の話の続きをいたします。ミサの話を昨日しました,今日はミサは「いけにえ」であるというお話をいたします。
私たちは十字架の主を見上げます。十字架の主はご自分を人々のために,私たちのために,上に向かって捧げておられます。私たちはその十字架の主を見上げて,私たちも捧げます。父なる神様は,上から十字架のイエス様をご覧になります。そして,一緒に私たちもご覧になります。そして,イエス様の捧げ物と私たちの捧げ物両方をご覧になります。そして受け取って下さいます。私たちのいけにえは,父なる神さまが受け取ってくださいます。
イエス様は誰のために自分を捧げるのでしょう。人類のためです。特に罪と悲しみにあえぐ人々のために,お捧げになります。私たちは誰のためにミサの中で自分を捧げるのでしょう。罪と苦しみにあえぐ人々のために,私たちは自分を捧げるのです。私たちは,人々のために捧げられるいけにえなのです。ミサに与るというのは,人々のために自分を捧げるということを表しています。そのために洗礼を受けたのです。このことのために信者になりました。自分の楽しみに,ミサがあるのではありません。自分たちの教会の結束を固めるためだけに,ミサがあるのではありません。自分たちの友情とか家庭を固めるためだけに,ミサがあるのではありません。全人類のために捧げる,これがミサです。私たちは全人類のために自分を捧げるために,ここで集まっているのです。だから選ばれた民,教会に入った者なのです。
今イエス様の十字架は,下を見つめております。人間の悲しみをじっと見つめておられます。人間の悲しみをじっとご覧になって,父なる神さまに持って行かれるのです。いけにえ,あるいは仲介者イエスという言葉があたります。ミサに与る私たちも,人々の悲しみをじっと見つめないといけません。自分の悲しみもじっと見つめないといけません。宗教は遊びではありません。その悲しみとは,私たちの老齢かもしれません。私たちの病気かもしれません。私たちが持っている人間関係のもつれかもしれません。家庭の問題かもしれません。子供の問題かもしれません。しっかりとこれを見つめて,私たちはミサの中でこれを捧げます。
世界の問題かもしれません。イラクの戦争のことで心が痛むでしょうか。壊された家族の痛みを感じているでしょうか。殺されていく子供のその悲しみとその母親の痛み,こんなものを感じているでしょうか。感じたらこれを捧げる,これがミサです。従って「信仰の神秘,主の死と復活を告げ知らせる」とミサの中で歌います。そうです。ミサは神秘なのです。私たちの頭ではわかりません。でも信仰を持っていれば,私たちは全人類のすべての人のために,ここにミサに与るということが分かります。これこそ偉大な神秘です。
しかし,その後で「主の死と復活を告げ知らせる」と歌います。私たちが主の十字架を見つめるとき,その向こうに主の復活が見えています。この世は十字架に終わりません。悲しみに終わりません。苦しみに終わりません。その向こうに,復活された主がおられます。大切なのは,今しっかりと十字架を見つめることです。そしてその向こうに光り輝く栄光を見つめることです。
教会への奉仕というと,平和行進ミサとかいろいろな活動をお考えになるかもしれません。でも,一番大切な奉仕は全人類のために捧げるミサに与るということなのです。
どうして,主の日にみんなでミサに与るのですか。それは,全人類のために捧げるキリストのミサだからです。私が少しぐらい平和行進したって,平和が来るのではない。イエス様が下さることなのです。一番大切な奉仕というのは,全人類のために捧げるミサなのです。この意味で,ミサこそ人々を救いに導く最高のわざです。主日のミサは教会のいのちです。どうしても良く準備しないといけません。
主日のミサをどうするかということを,教会の委員会も典礼の担当者もしっかりと考えないといけません。それはミサは教会のいのちだからです。というのは,それこそ全人類のために捧げるミサであり,カトリック教会が存在しているというのはこのことのためだと,こんな事を考えさせてくれております。
明日,明後日と続いて,闇と光に関する話をいたしたいと思っております。
※司教様チェック済