キリスト教一致祈祷週間説教

2005年1月20日
  於:浜田町教会(坂出市)

私は5年前に長崎から仙台の方に赴任いたしまた。ちょうど赴任してまもなく仙台市にあります八木山教会が火事で全焼しました。それが私の初仕事でした。どういう風にするかという事でした。
 当時、八木山教会の信者さん達は、焼けたんだから、火災保険を使って、全国から募金をしてもらって新築すればよいと、こんな風に考えている人が大半でした。私は彼らが反対するのを承知の上で、すぐに教会を建築するというのはどうだろうかと考え、建てる前に、教会とは何かを考えようと、こういう提案をしました。
 その時に、新築ではなくて、「新生」という言葉を使いました。ちょうど神戸の震災の後でしたので、カトリック教会が「新生」というテーマで教会建築ということを考えておりました。その当時の考えと合致しておりました。結局一年ぐらいかけまして、教会とは何だろうか、どんな教会を作りたいのだろうか、何のために教会があるんだろうか、こんな話し合いをいたしまして、老若男女皆さんは熱心に来てくださいました。話し合いを持ち、教会を考える集いにしたり、祈りにしたり、それからミサを一緒に捧げたりと、こんな事をいたしました。
 始めは随分と険悪な空気があったのですけど、一年やっているうちに「なるほどな」大事なのは建物ではなくて、建物を作る我々のほうにあると分かってきました。我々がどんな風に考えるかということがはっきりしないで、建物だけが出来たら結局教会そのものもつまらない、駄目なものになるんじゃないかと申しました。即ち自分達の考えている考えの結晶として建物ができれば一番いいじゃないか、それができなければ立てないほうがいい。まあこんな結論めいた話になってまいりました。今考えたら本当に恵みだったと思っております。
 仙台市にカトリック教会は七つありますけど、おそらく七つの教会の中で一番熱心な教会だと私は思っております。東北大学の学生寮がすぐ傍にあるということもあって若者がたくさん集まって来ますし、活気に溢れた、毎年必ず洗礼を出す教会です。皮肉なことに、火事で焼けたという事でカトリックの神父、司祭が不在になったわけです。司祭がいない信徒だけの教会ですけど、仙台教区の七つの教会では一番洗礼が多い所なのです。
 カトリックの教会というのはどこか聖職者中心の教会ですが、八木山教会は良い証しをしてくれました。カトリックの司祭がいなくても、神父がいなくても、充分教会はやっていけるのだといったことを教えてくれたような気がします。

ついでにこの頃の仙台のお話をさせて下さい。私は半年前に仙台からこの高松教区に移ってまいりました。仙台市には先ほど言いましたように七つの教会がありますけど、古い教会でして、旧市内に七つあって、車社会になりました現代七つの教会がだいたい15分から20分でいける距離にあります。ところが、その間に仙台市というのは政令都市になりまして100万から120万の人口に膨れ上がっております。したがって、人口の大半は都市部から郊外へと分散してきております。では教会としては、どうしても決まった都市部の小さな中心でなく、郊外に目を向けて行かなければならないと考えました。どのように仙台市の郊外に新しい教会を作っていくのか計画的に考えていかなければいけないという提案をいたしました。結果的には、旧市内にある七つの教会を吸収合併して、郊外に2つ3つの教会を建てていこうという提案がなされました。でも、折悪しくとうのですか、折り良くというのですか、戦災で仙台も焼けたので、今ある教会というのは建築50年60年の建物で、教会そのものが今建て直さなければいけない状態になっております。教会に休まず来ておられる古い信者さん達は自分の教会を建て直すということに熱心で、自分の教会を合併させて新しい所に進出などということはできませんでした。なかなか決断できず、アイディアを持たないこともあり、そこで色々な提案がされました。今の教会はきちんとした教会でなくて、仮設住宅みたいにプレハブ住宅でいいのではないか、むしろ、郊外のほうにきちんとした教会を作ろうといったことです。その時には猛反対でして、教会は我々が貯めたお金で作るのであって、他所に教会を作る事には反対であるとか、小さくても礼拝の場所はきちんと作らないといけないとか、ごたごたしておりまして、私は解決も見ないまま高松に転勤ということになりました。今もまだ、ごたごたが続いているだろうと思っています。
 でも、八木山教会と同じように、仙台の教会には問題提起をしたつもりです。それは、教会を建築するという意味ではなくて、教会とは何かという基本的な見方をきちんとしないといけないということなのです。今、バラバラの手紙とか、来るメールでかなりその考えが浸透しているという印象を受けております。

昔、カンドーというフランス人の神父様がいました。彼のエッセイの中で、旅客船の中の礼拝堂というのがあったのを覚えています。50年60年前は、まだ飛行機でヨーロッパに旅行するということは殆んど不可能でして、みんな50日とか2ヶ月かけて、船で旅行したものです。私も初めてヨーロッパに行った時は、船で54日間かけて行きました。その船の中でカンドー神父が言っているのは、朝ミサをすると、そこの所にマリア様の御像を置いている、ミサが終わって昼になるとそれが、くるっと廻って、或いは夕方になるとぐるっと廻ってマリア様の御像の変わりにビーナスが立っていて、そこでダンス会場になるというのです。そこで社交ダンスが行われるのです。カンドー神父は皮肉ってこの場面を書いております。即ち多目的ホールの一部が聖堂であるということです。これを皮肉って、一枚の壁の表裏をうまく使いこなして、何の良心の痛みも矛盾も感じない時代、これが現代であると、こんなことを述べております。

さて、本題に入らせてください。今読まれましたマタイの福音書で、岩を土台にしている家ということが言われております。岩を土台にしている家、即ち教会です。その前のほうにこれを「私の言葉を聞いて行うもの」、それが教会を作る、土台を作ることも言っております。

まず最初です。教会とは何でしょう。今日の福音書から第一番目の答えが返ってまいります。「私の言葉を聞く人」。これが教会の最初の要因になってまいります。カトリック教会は今、プロテスタントの諸教会からこのことを学ぼうとしております。
 第二バチカン公会議以降カトリック教会は「言葉を聞く」ということの大切さを口を酸っぱくして伝えております。残念なことにこの点に関してカトリック教会は長く怠ってきたと思っております。司祭の説教を聞く事で足りるという、非常に受身的な態度が多く見られました。その原因はやはり聖職者中心の教会観から抜け出さなかった点、これが今弊害となって残っております。司祭がいないと何もしない、こういう体質みたいなものがあるということです。その中でもう一度プロテスタントの教会から学ばなければならない事、それはじっくりと言葉を聞く事、味わう事です。この点に関して感謝してやまないのはプロテスタント教会であると私自身思っております。
 私事ですけど、私の兄は日本基督教団の牧師でして、今新潟県の新庄教会におります。私がカトリック教会に行ったその年に、兄はプロテスタントの教会に行きまして、私がカトリックの神父になったその日に、彼は牧師になりました。そんなこともあり、兄のところによく行っていたものです。行ったら必ず聖書の分かち合いを兄弟家族でしたのをよく覚えております。その頃、非常に恥ずかしいと思った事が何度も何度もありました。
 実際教会というのは言葉を大切にする場所です。ヨハネの福音書の最初に神の子イエスは神の言葉であるといわれます。神様の思いを表している言葉なのです。だから、神様の思いを知りたければ私自身がイエスというお方の言葉をしっかりと聞かないといけない。しっかりと聞いたらそこは神が見える。
 私たちが作っている教会は建物ではありません。神の言葉をしっかりと聞くために集まっている人たち、これが教会なんだということをまず示しております。

さらに「この言葉を聞いて行う人」と今日の福音書は言っております。言葉を聞いて、それを受け入れて、それを味わって、それを生きる。聞くだけでは駄目なのです。聞くというのは単に好奇心にあふれてとか、学問としてとか、少し良い人間になるからぐらいの気持で聞いても決して変わらない、何も行いとなって表れていないと考えたらいいでしょう。この「行う」との言葉のためにカトリックとプロテスタントの間に、永い間の対立が生まれてまいりました。解釈の違いが随分ひびきまして、そしてお互いの分裂をもたらしました。
 1999年にルーテル教会とカトリック教会が共同で「義認の教理に関する共同宣言」というのを出しました。ご存知だと思うのですけど。非常に画期的な事柄を成し遂げました。心情的的にこの人と私は同じ人間で同じ信仰者として合い分かち合っていくということ以上に、教義に於いても我々は合致点を見つけて行こうと、根本的な姿勢を見せているので、これが最高だと思っております。
 この義認に関して、何によって救われるかという事について2つの教会では微妙に解釈のしかたが違っておりました。でもこの「義認の共同宣言」を読みながら、信じる事と行う事というのは決して矛盾しない事、基本的には同じなんだという事、同じ教会の信仰を生きていくことが出来るという事、こんな事を確認させてくれております。その15条を少し読ませてください。
 「我々は信仰においてともに義認とは、三位一体の神の働きであると確信している。御父は御子を罪人を救うためにこの世へと送られた。義認の根拠また前提はキリストの受肉と死と復活である。こうして義認は次の事を意味する。即ち、キリストご自身が我々の義であって、我々は御父の意思に従って、聖霊を通してそれに与かる。我々は共に告白する。我々の側のいかなる功績によってではなく恵みによってのみキリストの救いへの御業への信仰において神に受け入れられ、聖霊を受ける。この聖霊が我々の心を新たにし、それによって良い行いにと我々に力を与え召出す。」
 難しい言葉を使っていますけれども、こういう事なんですね。神の言葉を信じること、神様がお恵みをくださって私が変わるという事、神を信じることを通して神様が恩寵、お恵みをくださ事、聖霊をくださる事、聖霊は人の中に入って、その人の生き方をキリストの生き方へと変えていってくださる。こんな事を言っているのです。これを救いと呼んでおります。わたしたちの岩、私たちの土台、私たちの教会の土台、これはキリスト様です。それは神の言葉への信頼です。何にもまして私たちは神の言葉を大事にしないといけません。カトリックの方々も、プロテスタントの方々もただ好事的な聖書の読みをしてはいけません。自分の生活を変える深い読みをしていかないといけません。その味わいを通して私の骨の隋までキリストさまが浸透していかないといけません。そのときキリスト者としての誇りを持って生きる事が始まってまいります。キリストを浸透させない言葉というのは、非常に押しつけがましい、ごり押しの宗教になったり、或いは弱々しい消え入るような、又は迎合するだけの宗教になったりします。確かな岩の上にたった信仰者が作る共同体これが教会です。私たちは一人一人教会です。神の言葉を信じて、その言葉を通して自分がキリストを生きると感じたその時に教会が始まります。それは仮設の住宅であってもかまわない。堅固な石のカテドラルであるかそんなことはどうでもいいことなのです。
 大事なのは一人一人が神の言葉に目覚めて、もう一度立ってみよう、現代社会に生きてみよう、ここの決意が出来るか出来ないか、ここにかかっていると思われます。今日の教会、岩、土台というテーマでのお話しました。



    ※この文章は溝部司教様の校閲、発表のご認可を得ています。