年間第2主日説教 ヨハネによる福音(1:29−34)

2005年1月16日
  於:今治教会

「私はこの方を知らなかった」と今日の福音書は言っております。ヨハネが言ったこと、これについて考えていきたいと思います。ヨハネはイエスの従兄弟でして、知らないということは無い。でもヨハネは「知らなかった」と言っています。何でしょう。
 「知らなかった」と過去形で言っております。だから今は知っているということです。あるいは、昔知っていたけど、知っていると思っていたことは実は本当は知らなかったということです。
 即ち、昔知っていたのは、イエスはマリアという女性から生まれたこと、ヨゼフと一緒に働いていたこと、自分と一緒に遊んだこと、ご飯を食べたこと、これらは全部知っている。でも本当の意味でイエスという方は知らなかったということです。ところが今、「霊が鳩のように天から降ってきたのを見た」、そのときにイエスが誰であるかがわかったのです。今まで知っていたのはイエスの一面に過ぎないということがわかった、ということを言っています。

じゃあ、ヨハネとイエスの違いってなんなんでしょう。あるいはヨハネの洗礼とイエスの洗礼についての違いは何でしょう。「私は水で洗礼を授けに来た」とヨハネが言っております。即ち自分が清めてもらいたい。私をきれいにして下さい、私は新しい生活を始めたいとそういう気持のある人が来て、ヨハネが水で洗礼を授ける時、その願いがかなって清められる。あるいは、新しい生活が始まる、こういうことを現しております。即ちその人の信仰、その人の気持、願いによって清められていきます。ヨハネの水というのは単なるシンボルです。受け入れる人の信仰によってその人が清くなります。
 それではイエス様の洗礼って何でしょう、イエス様の洗礼というのは聖霊によって清くなる、という事を言っております。他の福音書では「水と聖霊」によって清められると申しております。即ち水をかける時に聖霊が降って来て、その人を清くするのです。
 ヨハネのは私が望んで神様がその望みをかなえて下さることを意味しています。イエス様の洗礼は私が望むとか、望まないとか別に、水がかけられる時に聖霊が降ってその人を清くするという意味なのです。

違いがお分かりでしょうか。私達のカトリックの信仰は秘跡による神様の働きを信じております。日本の仏教で自力仏教と他力仏教というのがありますが、カトリックの信仰は他力仏教に似ています。あくまでも神様が主体であって、神様が降って来てその人を清めていく、これが、イエス様の洗礼なのです。即ち、ある人の信仰によって清められるということではなくて、水をかけること自体がその人を新しい生活にと変えていくという意味を持っております。

ここでいくつかのことをお互いに考察してみましょう。まず第一です。水は単なるシンボルと考える人たちがいます。だから、教会に行ったら最初に水をかけて、そして儀式的にこれで教会生活が始まると考えている人たちもいます。例えばあるプロテスタントの教会はこのように洗礼を考えます。だから、洗礼というのは教会に入る単なる儀式に過ぎません、あるいは信者になったという認定式のようなものであるという風に考えます。教会に行ったその日に洗礼を授けます。カトリック教会はそのように考えておりません。これは秘跡であり、洗礼の水を授けるその時に聖霊が降って、その人を中から変えていってくださる。そのように信じております。

 別の考えの人もいます。例えば「子供は何もわからないので、子供が成人になって自分が望むときが来たら自分で洗礼を受けたらいい。親の私がとやかく言う問題ではない」。今カトリックの教会の中でも多くの信者さんはこのように考えて、子供には洗礼を授けないということが流行になっております。でもこれも人間の側からしか見ていないから起こることです。即ち洗礼を通して神様が働いてくださるという意味がわかっていないからです。秘跡の力ということを信じておりません。水を通して神が働くという事、聖体のパンを通して神様が働き、キリストの身体になるという事を信じていない。この子供を自分の望む通りに育てようと思っているのです。即ち自力で、又は自分の力でという信仰しか持っていないのです。そこで、子供には洗礼を授けないのは、親の信仰についての択らえ方にあるのです。
 私達のカトリックの信仰というのは、秘跡による教会なんですよ。親が、教会が子供の意思を代表して、子供に洗礼を授けるこれを通して、子供に神様が働いてくださるのです。その子供の将来を神様が中から変えていってくださる。神様がという視点を持っていないから子供に洗礼を授けないのです。ここが問題だと、私には思われるわけです。

じゃあ、三番目です。洗礼によって何が起こるのでしょう。三つのことがあると、「カトリック教会のカテケーシス」では言っております。清められること、教会に入ること、それから、キリストの祭司職を行うこと。最初の二つ、清められることと、教会に入ることは省いて、三番目のキリストの祭司職を執行するという点を述べて私の話を終わりたいと思います。
 祭司職。あるいは司祭であるということはどういう意味でしょう。洗礼を受けたときから、私は司祭又は、祭司なのです。祭司、司祭というのは人々の願いを神様に伝える事。それから、伝えたその願いを神様から回答をもらってそのメッセージを人々に伝えること、恵みをもたらすこと、仲介者の役割になる、これが司祭なのです。イエス・キリストは大祭司、司祭です。イエス様は十字架にかけられて、神様に向かってたくさんの人々の苦しみとか悲しみを訴えます。「神様ごらんになってください。この人たちの願いを聞いてください。」と十字架から御父である神様に叫ぶのです。御父である神様は、イエス様のその叫びを聞きながら「あなたの叫びだから、聞いてあげよう」と言って、この世界の人々に喜びや、慰めや、その他色々なものを与えてくださいます。同じなんですね。私達が洗礼を受けたと言うことは自分だけが信者になったという事ではないんです。私は周りの人の悲しみとか、苦しみとか、この世界の悲しみとか、苦しみの叫びを神様に伝える役割を持っております。それだけではなく、神様からもらったメッセージ、神様からもらったお恵み、これを今度は人々に持っていくのです。私達がこうして日曜の御ミサにあずかるというのはどういうことでしょう。こうして主日に神を賛美するということはどういうことでしょう。人々の願いとか悲しみを持ってこなければいけないのです。自分の周りにいる人の悲しみを、問題を持ってくるのです。それをイエス様と一緒に父なる神様に捧げるのです。捧げて帰るときに神様のメッセージを、その人たちに持って行かなければいけません。ミサを出るときに「行きなさい。主の平和のうちに」と言われます。

現代社会に生きる人々に私達は神様のメッセージを伝えていく役割を持つことが洗礼を受けたという事になります。

    ※この文章は溝部司教様の校閲、発表のご認可を得ています。