待降節第4主日説教 マタイによる福音(1:18−24)

2004年12月19日
  於:丸亀教会

今日の集会祈願で「愛と希望の光を見出すことができますように」とお祈りしております。では、私たちは愛と希望の光をどこに見出すのでしょうか。今日のお話しの内容です。最近読んだ「あけぼの誌」に次の記事がありました。ブッシュ大統領が選ばれたのはアメリカの国益を守って自分達の社会を安定させて自分たちの家庭を守ってくれればそれでいいと考える保守層の支持があったのだと、いうことが書かれておりました。自分の家庭と安全な社会のみを求めること、ここに愛と希望があると考える人たちがブッシュ大統領を選んだのだということです。皆さんどうお考えでしょう。

昔、フォーク全盛期時代というのがありました。70年代の全共闘時代が終わり、80年代はその反動のような形で、マイホームとかニューファミリーとかいうことが叫ばれた時代です。代表的なのは、かぐや姫の「神田川」なんていう歌だったでしょうか。せつない二人の愛情を歌っていて、もうそれ以上の世界はないという捉え方がありました。実際は(そのつけは世界の潮流に遅れていくという結末を招きました。)、マイホームだけを考えている中に、私たちも自分の教会ばかりを考えていくときに、教会そのものを崩壊させてしまうことに気づいていません。内向きの内向きの希望と光を見いだそうとしたからです。
 90年代から2000年代に入りまして新しい世界の潮流、ものの見方が起こってきております。付加価値の時代とか知価創造の時代とか、かっこいい名前が付けられております。同じスカーフを着けても、同じネクタイを着けても例えば「グッチ」と言う名前が付けば何十万という価値がつく、名前がなければ同じ物でも2千円か3千円に過ぎないという時代です。個性ということがもて囃されまして自己を主張することが大事だとこれを強調しております。その結果、自分の持っている価値観を人に押し付けて何が何でも同じ価値観でないといけないという人たちがグローバル化などという言葉を使って私たちの社会常識にしようとしております。

自分が正しいと思っていることを振りかざす人ほど怖い人たちはいないと私は思います。何が何でも自分の価値観に相手を屈服させようとする。こういうものの見方はやはり、よろしくないと思うわけです。いずれも、愛と希望の光ということを自分という基準において見ています。だから、しるしというのは自分であり自分の判断なのです。先ほどの罪というテーマとも、赦しというテーマともつながると思うのです。罪というのは自分を基準にして自分の思うがままに考えるという、ここにあるということです。
 今日アハズという旧約聖書の王様が登場してまいりました。北イスラエルとアラムの連合軍がユダの王国に向かって侵攻しようとしております。これは紀元前780年頃の出来事です。アハズはその向こうにあるアッシリアという大きな国に頼ってこの連合軍を破ろうといたします。その時、預言者イザヤが登場しましてアシッリアに頼ったら駄目だと告げます。アッシリアはもっと大きな暴力でもってユダを蹂躙するから、決してアッシリアに頼ってはいけないと、という事を言います。今大事なのは神の力に頼るということをしなければならないということです。と申します、ところがアハズはそれを受け入れません。
 今の日本の状態でしたら北朝鮮の核の脅威が日本にあるから、とにかくアメリカに頼るのが一番なんだと、これに対して預言者イザヤはアメリカの核戦力に頼るのではなくて神に立ち返ること、神に頼ることが大事なんだよということを言います。それに対してアハズはそんなばかな、神様に頼ったってしかたがないじゃないかと、攻論します。"私は自分の判断でアッシリアに頼る"と主張します。こうしてイザヤとアハズの間に大きな溝が出来てしまいます。アハズが頼んでいた希望とか光というのはアッシリアの軍隊なのです。イザヤが与えるしるしというのはどんなしるしだったのでしょう。
 今日の福音書でヨゼフという人が出てまいります。ヨゼフとアハズがちょうど対になって考えられます。妻マリアが身ごもっているのを見てヨゼフは途惑って離縁しようと考えます。ところが天使が現れて命じられた通りに迎え入れなさいと告げます、聖書は迎え入れたと述べて、ヨゼフが神の言葉に従ったことを語っています。アハズは自分の判断基準をもとに人生を処理しようとしています。神の手を知らないわけではありません。でも人生の決断は全部自分にあると、思っているのです。

私たちも同じなのですね。結婚相手を選ぶのも私だと思っている。子供を産むことができるのも私だと思っている。就職を決めるのも私だと思っている。子供の学校を決めるのも私だと思っている。神様は本当の付け足しに過ぎないのです。結婚式とか葬儀のために教会が利用されればそれでいいんです。調子がいいところ、かっこいいところにちょっと付け足せばいいんです。これが神様であり信仰であり、教会なのです。こういうものの見方が、罪深さの根底にある、即ち私の基準は人間でしかないというところにあります。
 ヨゼフとマリアはイエスを受け入れます。その受け入れたイエスがしるしだと聖書はいっております。どんなしるしですか。人々と共にいる「インマヌエル」、人々と共に苦しむ、人々と共に悩む、人々の苦しみを背負っていくしるしなのです。

ヨゼフという人は神様を基準として考えることができる人でした。福音という視点に立って自分の人生を見つめることができる人でした。神様に希望と愛をおいている人は、内向きのマイホーム型、マイチャーチ型の人間ではありません。常に人に開かれていて、人の苦しみを背負っていく、こういうものの見方をしております。自分の考えを押し付けて、ごり押す生き方をいたしません。相手が置かれている立場をしっかりと考えていく生き方をいたします。それは謙虚に神の前に自分を見つめて頭を垂れていく姿勢、すなわち聞くという姿勢を持っているからです。イザヤは言います「聞きなさい」と。
 クリスマスを前にして私たちにも幼子イエス様は手を差し伸べて語っています「聞きなさい」と。聞いていくようにいたしましょう。

*この文章は溝部司教様の校閲,発表のご認可を得ています。